「パンデミック」

忘れていた宿題が突きつけられた。新型インフルエンザが猛威を振るいそうな気配に急遽出版された「パンデミック」(新潮選書)。感染症が世界的規模で同時に流行する意味だが、著者名を見た時である。小林照幸、記憶にあるなと直感し、思い出した。いつか読まねばと、佐々学・旧富山医科薬科大学元学長の著書と並んでいる「フィラリア~難病根絶に賭けた人間の記録」(TBSブリタニカ刊)だ。このノンフィクション作家によって書かれ、「首のない死体は西郷(隆盛)のものなのか?」で始まる。フィラリアの特長は象のように足が太くなる象皮病、陰嚢水腫(キンタマが大きくなる)などであるが、西郷はこれに罹っていて、下腹部が検められてようやく確認された。それはさておき、その根絶の最大功労者として、佐々学が最初に取材されている。
 さて宿題だが、佐々学長の晩年だ。結果からすると騙されるように黒部で病院を開業するが、実印を相手に渡してしまう無防備さで、思わぬ負債にぼろぼろになってしまった。さるパーティでは隅の方で、ひとりぽつんと日本酒を飲んでおられた。そんなこともあり、そこまで追い込んだ“わが地域のあり様”を明らかにしなければならないと思い込み、これを自らに課していたのであるが、遂に果たすことはできなかったようだ。
 学長室を訪ねたのは、昭和60年の秋。「とやまテクノ大賞」の審査委員長をお願いしたいとの用向きであった。机の傍らに長靴が揃えて置かれ、本棚で隠すようにデスクの上に顕微鏡が置かれている。怪訝そうな顔を見て、「僕はね、ユスリカの研究をしているだろう。いつでも川に入れるように長靴は必需品なんだ」と屈託がない。富山市松川沿いのマンションにお邪魔した時は、玄関に清酒立山6本が入った木箱が置かれていて、「富山の酒はおいしいね。魚も自分でさばくんだよ」とこれまた人を警戒する素振りもない。初回の大賞受賞は、わが先輩でもある米田祐康が立ち上げたニッポンジーンとなった。バイオベンチャーの先駆けで、遺伝子を切断する制限酵素を大手に伍して挑戦していて、佐々学長の強い推薦に一同肯くしかなかった。
 また、東京在住の富山県出身学生を集めた企画で講演をお願いし、会場は虎ノ門パストラルと伝え、前日にホテルを用意しますといったら、東京の自宅は目の前だから歩いていけるということで驚いた。芝白金の一等地である。父は内科医で神田・杏雲堂病院長、祖父は東京大学初代細菌学、衛生学の教授、ふたりの叔父もそれぞれ千葉大、岡山大の教授とその系譜は目もくらむようなもので、納得した。本人も東大医学部だが、恩賜の金時計をもらった首席卒業だと明かしてくれたのが利根川進の恩師でもある渡辺格慶大名誉教授。ふたりの対談を行った時だが、「いわば日本のトップ頭脳を富山に招いているのだから、そのつもりで」と諭された。
 それがどうであろうか。利用するに事欠いて、カネまで巻き上げてしまうというこの地域の料簡を、どう理解すればいいのだろうか。昭和58年4月の着任の時、愛車であったサニーカリフォルニアに、ユスリカの標本を詰め込んで松本、大町を抜け、親不知を通り、宇奈月温泉に予約なしに一宿を乞うている。そして、気に入ったのである。黒部の地もそんな縁から選んでいるのかもしれない。恥ずかしい限りである。都の権威を、三拝九拝して招き利用しながら、結果として襤褸切れのように捨ててしまった。筆者の誤解、聞き間違いもあるかもしれないので、真相を知る人はぜひ、語ってほしい。
 平成18年4月10日、恐らく一言の恨みをいう事もなく逝ってしまった。享年90歳。浅草育ちながら魚津に住んだ池田彌三郎が肝硬変に罹り、あまり飲めない状態の時、富山第一ホテルのバーでふたりが飲んでいる。東京で付き合いがあり、畏友と称していた。それから間もなくして池田彌三郎は不帰の客となるのだが、富山県中どこに行っても彼の死を悼んでいるのを知り、富山とはそれほど文化人を大事にするところかと佐々は感じ入っている。皮肉としかいいようがない。自分だけはよいとするパンデミックでなければよいが。

© 2020 ゆずりは通信