遥かな尾瀬、疲れ旅。

 いつかは尾瀬へと思っていたが、偶然に実現した。永らく開業医をしていた高校同期が理想的な後継プランを得て、自由時間という褒美を獲得し、尾瀬への団体旅行に誘ってくれた。富山駅発着の「尾瀬ヶ原と谷川岳ロープウェイ。1泊2日の旅」。総勢18人。女性のひとり参加6人には驚いたが、旅慣れた風であった。

 最初に尾瀬を知ったのは、72年に刊行された「尾瀬に死す」(新潮社)。著者は尾瀬沼畔の長蔵小屋三代目・平野長靖で、66年に着工された大清水と沼山峠を結ぶ自動車道を大石武一・環境庁長官に直訴して中止させた。ちっぽけな山荘経営者がたったひとりで快挙を成し遂げた。しかし同年12月、その彼が三平峠で遭難死してしまう。36歳であった。京大文学部を出て北海道新聞に入ったが、小屋を継承するはずの弟が亡くなったので、道新の同僚であった妻・紀子を伴って、小屋を引き継いだ。現在彼らの長男がやっている。著書はベストセラーになり、後年NHKでドラマ化された。また、自然保護運動の先駆けといっていい。京大での学生運動、道新での組合運動にとても親近感を覚え、10歳上の先達と敬意を抱いて著書などに接していた。

 いつしか「尾瀬は日本の宝」が定説となり、水芭蕉が咲き乱れる湿原を木道で歩く登山者の姿を、誰もが思い浮かべるようになった。福島、群馬、長野3県にまたがり、年間50万人が訪れる。

 わがコースは群馬県側の鳩待峠から入るルートで、山ノ鼻までの行きの1時間と戻りの1時間半は歩かなければならない。わが同僚とは、更にヨッピ吊り橋までの周遊3時間に挑戦することにしていた。昼食休憩を挟む強硬策だが、われらが体力の限界を思い知らされることになる。トイレも計算に入れなくてはならない。先に弱音は吐けないと、いつしか無口になる。山ノ鼻にようやく辿り着き、小用をすませた。あと1時間半の登り斜面が待っている。足をさすりながら、回復を待つが膝周辺に疲れがこびりついている感じだ。聞こえない程度の掛け声を出して、歩幅は小さくと懸命に足を進めるが、若者達はお先にと追い抜いていく。最終の登りはきつく、足がもつれそうになりながら、やっとの思いで辿り着いた。600円のソフトクリームがうまかったこと。

 尾瀬の印象だが、水芭蕉がとにかく大きい。可憐さとは程遠く、白い花も自己主張が大きく思えて興ざめであった。ヨッピ吊り橋はアイヌ語で「呼び」「別れ」「集まる」といった意味。多くの川が集まり、多くの支流に別れていく起点で、定員10名以上は乗れない小さな吊り橋だが、せせらぎの音と流れが何とも心地よかった。尾瀬を満喫するには山小屋に泊まるしかない。長蔵小屋で平野長靖に思いを馳せるのが一番だが、もう果たせないだろう。

 初めて知ったのだが、東京電力が尾瀬国立公園全体の約4割、特別保護地区の約7割の土地を所有している。明治期の電源開発に由来するのだろうが、3.11の放射能がこの湿原にも降り注いだのだろうと思うと複雑な思いがする。尾瀬自然保護財団もあるが、行政が東電に負担を押し付けているのではないかと危惧する。

© 2024 ゆずりは通信