人生の余白を生きる

 78歳となった。自分史年表を作成しているので、70歳まではよくわかる。しかし70歳からの「無名無所属」は書き足すことがなく、やはり人生の余白のように見える。この余白こそ豊饒なものにしなければならない。そんな持論を振りまいていたが、はなはだ心もとない。誕生日を機に、気持ちの整理をしておかないと同じ愚を繰り返しそうだ。人生永遠ではなく、「死」もそれほど遠くにあるものではない。むしろ死を意識することで、生きることが解放され、充実するという考え方もある。一番おいしいものは最後に取っておこうという「最後」がやってきていると考えたい。にわか仕込みの思考が入り乱れるが、辛抱してお付き合い願いたい。

 死を意識しての最初の問いかけは、人間とはどんな存在か。そんな問いにならざるを得ない。そこの理解を共有しないと空理空論になってしまう。

 人間には社会的「いのち」と、生物的「命」という二つの側面がある。70歳までは、社会的「いのち」の比重の方が断然に大きい。仕事や、家族に大きく縛られ、左右される。何よりも市場競争原理がのさばっている。優劣競う厳しい競争を何よりも生き残らなければならない。死なんぞを意識している余裕なんかあるわけがない。

 一方、70歳を過ぎての無名無所属は、生物的「命」の比重が強くなる。孤独感、老い、病気など普遍的で平等な課題と等しく向き合う境遇となる。人生の余白というのは、生物的な命を達観して生きることで、豊饒な精神生活を送れるのではないか、というわが仮説である。

 分子生物学なるものが精神と物質の関係を明らかにしてくれた。物質から生まれた生命は物質で解き明かされ、神秘な生命現象といわれる精神も当然物質で解明される。本当に生きているのはDNAであって、人間というのは身にまとっている衣に過ぎない。加えて、地球が誕生して以降、何億年もかけて生まれたたったひとつの細胞がわが始祖である。この細胞が奇跡的な進化と選択を重ねて、ホモサピエンスとなり得た。

 生物は進化の結果生まれてきたものであり、死がなければ進化もありえなかった。進化とは変化と選択の繰り返しで、さまざまな分子が生まれてくる多様性の中で、選択が可能となり、環境に最も適応した生命を獲得してきたのである。

 ということで、老人は「死は無になる」ことだという唯物史観ならぬ死観に立っている。本音からすれば、通俗な欲望から解放されているわけではない。しかし、そこに立ち戻っていると凡愚の繰り返しをせざるを得ない。78歳まで生き永ら得ることができた幸運を思えば、これほどの覚悟は引き受けざるを得ない。

 さて、人生の余白を豊かに生きるとはどういうことか。市場原理を超えた「人生心意気」の贈与経済もひとつ。金だけではない、余った時間と知恵の贈与ももっと積極的に考えてほしい。「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」。これをハガキに大書して、事業に躓いた友人に送ったところ、なるほどと返書が来た。気配りも贈与の大きなひとつとなり得る。

 

 

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