「ウクライナ戦争が突きつける問い」

 戦争というリアリズムを目の当たりにして、曖昧な考えは許されない。「法の支配に基づく国際秩序」とお題目を語る首相には、政治哲学どころか、説得力の微塵も感じられない。主体性を失った日本はますます米国への盲従に走るしかない。この諦めに似た敗北感を、誰も否定できないことを前提に、誰も責任をとらない安全保障政策が積み上げられていく。ワシントン電は、日本の防衛費増額はバイデンの再三の説得にキシダが応えたとしていたが、「キシダは既に決定しており、説得は必要なかった」と訂正した。いい間違いを繰り返す認知症バイデンのわざとらしい訂正を信じるものはいない。

 さて、今更憂国の思いを綴ろうというのではない。米国外交の根底にあるものを、いま一度見直してみたい。最も記憶に残るのが、1971年のキッシンジャー中国訪問である。罵倒し合っていた両国が密かに話し合っていて、わが国はつんぼ桟敷におかれていた。この衝撃は忘れることはできない。実用、実利を重んじるプラグマティズムを初めて思い知らされ、二重基準もさして気にしない政治風土を胸に刻んだ。抜きんでた富裕国家であり、世界最強の軍事力を持つ例外的な国家だという傲慢な矜持だ。2001年の同時多発テロは、この例外主義を議会の圧倒的多数で「テロとの戦い」と謳い、イラク、アフガニスタンへと駆り立てた。核無き世界と広島で演説したオバマも例外ではない。ドローンを米兵に被害を出さない人道的武器とうそぶき多用し、安全保障では甘い顔を見せず、徹底したリアリストの顔を見せなければならないと回顧録に記す。

 裏面の米国をこれほど見せつけられても、「膨張する中国を前に、米国なしに上手くやっていける政治家も外交官もほとんどいないだろう」という諦めに、ウクライナ戦争はダメを押しているように見える。

 しかし、そうした動きにも変化が出てきている。アメリカの若者たちは今、リーマン以来の長い不況で国内の貧富の差が極限まで広がり、テロとの戦いと称して双方に甚大な犠牲と無駄な戦費を注ぎ込んだ愚かな国と思うようになっている。加えて、民主主義や人権の擁護を自負しながら、イスラエルのパレスチナ人への殺害や人権侵害を黙認していることに批判の眼を向けようとしている。そうした眼はウクライナへの際限のない武器支援の先に平和は訪れるのかという懐疑にもつながっている。

 アメリカの単独覇権から、同盟国を巻き込んだ拡大抑止への転換で何とかしのごうとしているが、危うい空論のように見える。中国ロシアを中心とした覇権主義は何としても避けたいと思うが、新たな国際秩序をどう組み立て行くか、大きな岐路に差し掛かっていることは間違いない。眼を凝らし、考え抜き、これはというデモに参加しよう。

 昨日6月30日の東京地裁で、大川原化工機事件が警視庁公安部に所属する警部補の全くの捏造であることが判明した。昨年8月当ブログでも言及した、軍事転用が可能な機器を無許可で輸出したとする冤罪事件だが、役員3人が1年以上拘留された。昨年5月に高市早苗が主導し、成立した「経済安全保障推進法」を先取りした警部補の功名が動機だという。法を作る政治家もそうだが、このゲス野郎の警部補に振り回される警視庁の組織風土も戦前のままなのだろう。安全保障を掲げる「法の支配」の実態はこんなものである。大川原化工機事件も決して忘れてはならない。

 参照/世界7月号

© 2024 ゆずりは通信