帯広にて

 「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、何という幸福な人たちであったでしよう」。思い立っての帯広行きだが、十勝毎日新聞の8月4日朝刊「編集余禄」はアイヌ神謡集の序文で歓迎してくれた。機内から見る十勝平野は、小さなコタンで無邪気に遊ぶ童と白いあごひげの老人の笑顔が想像され、なぜか粛然とさせる。実は亡妻が眠る墓は池田町の高台にあり、義弟が守ってくれている。1997年の逝去から、供養らしいことは何もしていないので、小5になる孫娘の夏休みを待って次男一家と計画していた。音更町に移住した義弟宅の訪問も初めて。3泊4日だが、帯広を堪能することができた。

 更に「編集余禄」は続ける。依田勉三率いる晩成社が十勝に入植したのは1883年。当時の十勝はうっそうとした森であり、アイヌが大自然に抱擁されて暮らしていた。晩成社の人たちはアイヌの暮らしの知恵に学び、飢えをしのいだ。それから140年経た今日、十勝は日本有数の畑作酪農地帯に変貌した。不退転の決意で入植し、巨木に挑んだ先人たちの血と汗の苦労があったのだが、開拓の推進はアイヌの暮らしの基盤を破壊したということも否めない。

 帯広では、六花亭の存在が大きい。六花亭飛躍のきっかけとなったマルセイバターサンドは、晩成社が初めて商品化したマルセイバターに由来する。いわば開拓の歴史が詰まっている。今回の旅の最大の収穫は、六花亭アートビレッジをゆっくり散策できたこと。7つの美術館が十勝の原生林を思わせる緑の中に、程よい距離に収まっている。トヨタのカーデザイナーから帯広に移住して画業に転じた真野正美、デザイナーからイラストレーターに転じた安西水丸、十勝に満州での厳しい体験を甦らせ、自身の原風景を発見した相原求一郎などだが、絶妙な時間と空間を提供してくれる。更に驚いたのは雑誌「子どもの詩 サイロ」がさりげなく置いてあるのだ。この8月号がナンバー764なので、ほぼ14年続いている。「あのね せんせい あのね だいすき だれにもひみつにしてね 1年 なかむら にか」。「子どもの詩は古くならない、心の原風景を呼び起こす」と結ばれ、地域の小中学校での詩の授業と連携している。大向こうをうならせる美術館と、目立たないが血の通う地域連携の詩集発行はメセナの代表企業といっていい。実質創業者の小田豊四郎が、何かのセミナーで「お菓子は文化のバロメーター」と聞いたのがきっかけで、これほどまでに徹底したということだろうか。

 一方でその商品だが、特別のものを作っているわけではない。「十勝の人が日常食べるおやつ」を作ることを常に意識し、毎日おやつとして食べることができる価格帯を想定している。富山でリブランを展開する創業者に会った時も、六花亭が目標と聞いた。彼は富也萬のブランド化を目指したが中途半端に終わった。道遠しという感じだ。帰りの空港で見かけた客の大半は六花亭の包装袋を手にしている。わが家のレシートを計算すると、六花亭15,200円となっていた。

 六花亭の年商はほぼ200億円。メセナにその1割、20億円を投じているのだろうか。わがメセナは孫娘に、夏休みに読んでほしいと石森延男の「コタンの口笛」を贈ったこと。

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