「ハングルへの旅」再読

 80の手習いである。何を思ったのか、富山外国語専門学校専修コース「ハングル初級講座」を申し込んだ。いや、申し込んでしまった。入門講座を問い合わせたが、定員に達しているという。ワンランク上の初級講座はあと2人大丈夫ですとの返答に、来年まで待てないと思って、窓口で即断した。受講料13,620円の振込用紙と、紀伊国屋書店で買うテキストのパンフを受け取り、気が変わらない内にと、その足で手続きを済ませた。早速、初級のテキストを開くと、大学で1年程度学んでいるレベルを想定している。もちろんカタカナの振りがなく、チンプンカンプンで、急に不安になってきた。

 動機の伏線は、孫娘の神戸大学入学にある。何を思ったか、第2外国語をハングルにするという。予期せぬことで、こちらのうれしさといったらない。すぐに茨木のり子の「ハングルへの旅」を思い出して、書棚を探した。2005年の第8刷で、定価は540円。あとがきに「いわば、誘惑の書を書きたかった」とあるが、文字通り最強のハングル誘惑書である。送ってやろうと、ゆうパックに入れようとしたが、ついページをめくると引き込まれてしまった。内容はほぼ忘れていて、新鮮である。

 茨木のり子がハングルを学び始めたのは50歳の時。夫との死別の悲しみをハングルに打ち込むことで、何とか立ち直ろうとした。加えて、少女時代から金素雲の「朝鮮民謡選」を読んでいたのも大きい。しかしこれだけではない。歴史の必然ではないが、個人の思惑など超えて、歴史のうねりの中で期せずして役割を果たしていく。学びの場として選んだのは、新宿の住友ビル48階にある朝日カルチャーセンター。これが講師で、HK国際局勤務のアナウンサーでもある金裕鴻(キムユーホン)との出会い。開講の冒頭あいさつで「시작이 반이다.(シージャギ・パニダ)」。韓国のことわざだが、物事は始めさえすれば、半分は成就したも同じだ、と励ました。全身で教える情熱と、学びたい深い思いが日々ドラマを生み出していく。茨木はほぼ10年学びを絶やさなかった。「隣の国のことばですもの」(筑摩書房)で、著者の金智英が綴っている。夫の死でようやく自立と自由を得た茨木のり子には、恵まれた家系の中で朝鮮由来の釈迦三尊像などの仏像、白磁・粉引などの李朝陶器、李朝民画などに通暁していた人も多く、ハングルの獲得はその土壌に更に分け入っていった。そして到達したのが彼女の編集翻訳した「韓国現代詩選」。64歳のときである。日本人による韓国詩の翻訳は特に遅れていた。獄中にあった詩人・金芝河の救出活動に参加した時、日本の詩人のやるべきことは彼の詩を読むことであり、きちんと批評するべきだと指摘された。それがいつの間にか、韓国詩の翻訳でのトップランナーとなった。

 老人の夢は、同志社で学び、28歳で福岡刑務所で獄死した詩人・尹東柱の「空と風と星と詩」をハングルで読むことだ。できれば、声を出して。入門書を眺めながら、激音とか濃音とか、ハングルは歌う言語であることがわかる。音感とリズム感は欠かせない。道遠しという思いが強い。

 ところで、韓国の総選挙と日米首脳会談が期せずして、日韓関係の覚束なさを露呈させた。東アジアの小国同士、もっと知恵を凝らせないものだろうか。

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