樺太(サハリン)

日脚伸ぶ卒寿の父と風呂に入る(ひあしのぶ そつじゅのちちと ふろにいる)(拙句)

昭和4年(1929)4月。新湊の青年は富山伏木港から貨物船第五剣山丸に乗り込んだ。行き先は樺太大泊港、現在ロシア領サハリン・コルサコフ。18歳で単身、ほぼ4日間の船旅であった。鰊(にしん)漁場への出稼ぎである。終戦時、樺太から新湊への引き揚げ者は170人を数えた。それほどの交流であった。叔父・金子岩次郎が彼の地で船頭をつとめていたこともあり、単身で出向くことを決めたのである。狭い故郷で、じっと我慢できる性格でもなかったようだ。

鰊漁は4月から6月。産卵のために押し寄せる鰊の背びれで海の色が変わる。ひたすら網を引き揚げ続け、親船の網に投げ入れ、それを陸揚げする。もたもたしていると氷山が押し寄せ、親船ともども押しつぶしてしまうからだ。ちょっとの仮眠だけのフラフラの状態で作業が続く。陸揚げした鰊は、馬が滑車を回すリフトで、小高い丘に引き揚げられ干される。気温は4月とはいえ、零下5度。凍える寒さである。寝泊りは番屋の2階。青年の身体は大きく、力もあり、網仕事以外は引けを取らなかった。それで一人前の給金がもらえた。ほぼ3ヵ月で150円程度。米10キロが2円50銭、大工手間賃が1日2円の時代である。6月の漁期が終わると、稚内にあがり、函館まで列車で行き、青函連絡船で青森へ。そして延々日本海を列車で富山に帰った。これを4年ばかり繰り返す。

こうした伏線もあり、妻帯の身となった昭和7年(1932)。ひと旗上げようと韓国行きを決断することになる。この樺太行きから青年の人生が始まったといっていい。

この青年こそわが父・正作である。明治44年生まれの92歳。父は子のない祖父母のところへ養子に出された。なにしろ14人の兄弟姉妹の三男。口減らしである。祖父はこの樺太行きの前に亡くなった。養家を支えていかなければの思いもあったのかもしれない。

父は数年前までは自転車を乗り回していた。自分の記憶が覚束なくなり、どこに自転車を置いたのか忘れてしまい、家族に咎め立てされると凄い剣幕で怒り出し、すぐに自転車屋に走り、新しいのを求めてきて、これで文句はないだろうと捨て台詞を吐くことも。自尊心が強く、短気な性格は、老いをいまだに認めたがらない。しかし、最近ではとみに衰えが目立つ。わが両親は姉と一緒に新湊に住んでいる。母は大正3年生まれの90歳。

ノンフイクション作家の沢木耕太郎が「無名」という長編を昨秋書き下ろした。彼の父を看取った経過と、その思いが綴ってある。引っかかってはいたが、自分では読むまいと思っていた。ところが、姉から電話で、最近面倒くさがって風呂に入らないから、一緒にはいってくれ、といってきた。こういう時には何をさておいてもすぐ出かけることにしている。卒寿祝いの山中温泉以来である。湯加減はぬるめにしたが、とても熱いという。しばらくすると、もっと熱くならないか、と。皮膚の温度感覚もずれてきているのかもしれない。愕然としたのは、げっそりと尻の肉の削(そ)げ落ちていること。そんなこともあって「無名」を手にした。沢木の父に対する慙愧(ざんき)も、すとんと胸に落ちた。

そして思い出したのである。10年前ぐらいに、「おい」といって無造作に渡された封筒。中には家系図と一緒に、韓国、樺太の自作の地図に几帳面な字で、渡った箇所に時期とメモが記されていたのである。その時はざっと眼を通して、机の引き出しに仕舞っておいた。それを「無名」は引っ張り出してくれた。これから始まる老々介護の中で、ひとりの明治生まれの男の中の歴史を、自分なりに整理をしていかねばなるまいと思っている。

樺太サハリン。それは悲しい島。明治8年の樺太千島交換条約で樺太はロシア、千島は日本に。それまでは「界を分かたず」の雑居の地。ロシアは流刑植民地としていた。明治38年にポーツマス条約で南樺太が日本領に。入植が進み41年末に人口40万人、そして朝鮮半島出身者が4万人に達していた。そして45年8月9日参戦したソ連は南樺太にも侵攻。峯木中将率いる第88師団はよく戦い、一挙に北海道に侵入しあわよくば北海道をも手に入れようとするスターリンの野望を挫いた。しかし辺境の地、敗戦の報が届かず戦闘は9月20日まで及び、真岡郵便局の若き女性電話交換手9名が自決するなど、満蒙と同じような悲惨をまねいている。

そして今ひとつは、在サハリン朝鮮の人々の帰還が戦後60年になろうとしているのに一向に進んでいないこと。そのほとんどの人が、日本の国家総動員体制の下での強制徴用による。

戦争責任を含めて、あいまいに、あいまいにしてきた日本人の付けがここにも及んでいる。

*参照
「無名」沢木耕太郎著1500円。「悲しみの島 サハリン」角田房子著1700円。

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