「研究現場からの悲鳴」

 「ゾウの時間 ネズミの時間」を著した生物学の本川達雄によると、心臓や肺などが動く回数は決まっているという。ヒトは一生の間で心臓が15億回、肺が3億回だ。他の動物も体重差により一拍時間は異なるが、回数は変わらない。それでは心臓が15億回、肺が3億回で、何歳まで生きられるのだろうか。何と42歳となる。ちょうど老いの兆候が出てくる頃だ。ヒトの寿命は40歳と銘記すべし、あとは文明の恩恵で永らえている人工生命体に過ぎない。野生では老いた動物は存在しない。生存競争は厳しく、たちまち野獣の餌食になってしまう。ヒトでもエスキモーにはこんな不文律が残っている。厳しい寒冷地に居住し、常に食糧不足の状態なので、少ない食料は次の世代に振り向け、高齢者はある年齢になると自らの意思で家族を離れて死への旅路につく。そこで本川の老後の生き方だ。福沢諭吉のいう「一身にして二生を経る」というおまけの人生という感覚で、利己的遺伝子から解放されたらどうか、となる。「生物学的文明論」(新潮新書)

 さて、こんなことを引用したのは河村小百合・日本総研上席主任研究員の「研究現場からの悲鳴」(東京新聞4月12日/本音のコラム)を読んだからだ。悲鳴の舞台は国立大学である。

 悲鳴をあげているのは40歳未満の若手研究者たち。新しい職場に入ってみたら、厳しい業績評価と任期限定という条件が付されるのは自分たち新入りだけ。隣室では成果は特に問われず、年功序列で定年まで昇給するご老体がのほほんとしている。5年前に国立大学教員の年俸制が導入されたのだが、適用されたのはその後の新規採用のみとなっており、業績評価もこの層は対象外となっている。加えて、5割近い国立大学では民間ではあり得ない給与減額なしの定年延長がなされている。その間ポストが空かないという現実は、若手にとって悲惨としかいいようがない。「東大助手物語」が今に続いている。運営費交付金の伸びが抑制されるなか、年功序列型の組織・人事運営が根強く残り、そのしわ寄せが若手教員に及んでいる。外国人スタッフの登用が進まない状況も同じ事情からきている。現に国立大学の若手教員(40歳未満)数はこの2年で千人も減っている。何よりもこの危機的状況を見聞きした学生が研究職に希望がないと博士課程後記に進学しない。

 河村研究員は、国立大学の研究力低下の原因は運営費交付金の減額ではなく、マネジメント改革の遅れや客観的な評価の制度がないことであり、国立大学法人制度の抜本的改革が必要だという。

 はてさて、この問題提起を国立大学はすんなり受け入れるだろうか。教授の庭の草むしりまでして助手からはい上がり、何とか助教授ポストを手にしたが、これも任期限定だと、ご老体教授の定年延長で期限切れということになってしまう。もう20年前になるだろうか。論文に応募してかろうじて得た地方国大の助教授ポストだが、その閉鎖性によるいじめに似た空気にいたたまれないとこぼした男がいた。彼は民間から転じたのだが、公務員感覚が骨の髄までしみ込んで、金銭感覚が薄汚いのが一番嫌だったと眉をひそめた。

 国立大学のご老体諸兄よ。「学問の自由」「大学の自治」を掲げて、その実既得権にしがみついているのではないか。こうした批判にこたえるべきだろう。人間の創造的な能力が発揮できるのは35歳から45歳前後であろう。人工生命体としては利己的な遺伝子から自由となって、時にエスキモーにならう自己犠牲があってもいいのではないか。国立大学だけに限らない、かくいう己にも突き付けられている。

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