「グラン・トリノ」

様々なことが目まぐるしく、目の前を通り過ぎていく。見ていたのかという風でもある。関わったところで、ほとんど影響を与えることもない。老境に入ってからの孤独感はそんなことで深まっていく。持って行き場がない、やっかいなものだ。若い時であれば、友を誘って呑んで騒げば何となくやり過ごせたように思うが、老境のそれはそうはいかない。妙に頑固になっている。すぐに電話や携帯、メールに手が伸びない。会えば、もっと深い孤独を思い知らされるのではないか、という恐れでもある。
 「老人は迷っていた、人生の締めくくり方を。少年は迷っていた、人生の始め方を」。こんなキャッチフレーズに誘われて足を運んだ。映画「グラン・トリノ」。78歳のクリント・イースドウッドが監督し、そんな孤独な老いを自ら演じている。
 フォードを退職した主人公ウオルトは妻を亡くし、ひとりで住んでいる。つい米自動車関連労働者の手厚い年金制度を想像してしまうのだが、世代間格差が米社会も蝕んでいるのは間違いない。二人の息子家族とも心通わさない頑なな偏屈老人だ。ところがひょんなことから、隣に住むラオスからの移民・モン族一家の若者・タオと心をひらき始める。アメリカ中西部ミネソタの田舎町。人種差別、貧困、偏見がはびこり、特に荒んだ若者の暴力が幅をきかせる。家の修繕を通じて仕事の手ほどきをするタオが不良仲間から、リンチを受ける。それに憤り、不良のひとりを殴り倒したウオルトの行為が火に油を注ぐ結果となり、タオの姉が陵辱される。このまま引き下がれないとするタオを押し留め、ひとり不良グループに立ち向かう。それは彼らに銃をにぎらせ、自らの身を射させること。朝鮮戦争に従軍し、修羅場をくぐってきた迫力からか、ちょっとポケットから銃を抜くような仕草に、不良達は動転して銃を撃ち放す。もんどりうつウオルト。駆けつけた警官に捕縛される不良たち。筋書き通りともいえる復讐劇である。
 家族でもないモン族の純真な青年のために命を投げうち、遺言は財産は教会へ、彼が磨きあげていたフォード社製の名車グラントリノはタオに譲るというもの。がっかりする息子達遺族。イースドウッドのメッセージはどこにあるのか。意味のある死を自ら選択する老獪さ、移民でもあるこの少数民族にしか託すことは出来ない孤独と希望。GMの破綻劇を見るまでもなく、アメリカ建国の理想が人間の欲望をコントロール出来なくなってきている。そんな苛立ちと立て直すきっかけを訴えているように見える。
 さて、追い詰められた孤独と絶望といえば、盧武鉉前大統領であろう。自死は衝撃であった。年齢は1歳下だが、高卒で司法試験に挑戦し、人権派弁護士として、そして金大中の後継者として、北との融和政策に取り組み、米国依存にも果敢に抵抗することも、高く評価していた。また歴史認識でも、日帝支配下での行動がどうであったかを持ち出したことも、戦略的な互恵関係とかいってごまかすことより、確かな日韓関係をつくるうえで遠回りそうに見えても大事なことと思っていた。その生真面目さは全共闘世代と通じる。カトリックの熱烈な信徒でもあった自死は、それほどの絶望であったのだろうと推察するしかない。
 高齢化社会とは、孤独にどう向き合うか、でもある。昨年4月82歳で亡くなった歌人・前登志夫は、吉野に50年間隠棲して詠み続けた。いぶし銀ともいえる「孤独」である。「風吹けばねむりのままに勃起せり仏弟子ありき木々青あらし」。
 蛇足だが、ミサイル発射、そして核実験と北の強硬策は続くが、満州国建国を巡り、国際社会のすべてを敵に回した国と重なって見える。万一、万一と騒ぎ立てる愚は避けなければならない。もっと冷静に、日韓双方で北の再生プログラムを話す時が来ている。盧武鉉の死も無駄にしてはいけない。意味ある死を求める孤独老人の出番は必ずあるのだから、その日のために鍛えておこう。

© 2020 ゆずりは通信