全羅南道光州生まれ。金大中と同郷なのだ

生まれは何処かと問われれば、朝鮮半島の左下、全羅南道光州。あの金大中氏と同じ、と誇らしく応えることになろう。詳しくいえば金氏は光州のさらに下に位置するである。

1945年8月、敗戦から2週間過ぎに呱々の声を上げた。私の誕生を待っていたので、当然引き揚げが遅れた。近所が先を争うように脱出していく中でじりじりとお産を待っていたのである。祖母、両親、姉そして生後間もない私の5人。目一杯のリュックに、両手も持てるだけもの。私は祖母の背に括り付けられて。家族に大変な迷惑をかける破目に。鉄道を利用するために、いったんはに逆戻りし、へ。ここが引き揚げの最大の難関。引き揚げ船に乗れるかどうか。ここを差配する韓国の官僚とやり取りするが、らちがあくわけではない。収容所で手をこまねいてイライラするだけ。後から来た人がワイロにものをいわせて先に乗船していく。そんな時に救世主が現れたのである。米軍の黒人兵。祖母の背の私ににっこり話し掛けてきたのである。祖母はただひたすらに手を擦りあわせ、乗船を懇願する。黒人兵のOKに家族5人小躍り。ようやくにして本土・博多の地を踏むことができた。生後45日の最大の家族貢献である。この時以来、我が家は親米派である。この乳呑児、おっぱいがほしいと泣く体力もなく、育つかどうかの覚束なさだったらしい。その時の虚弱性は今も残っていると思うが、誰も信じてはくれない。

さて全羅南道光州であるが、9年前傘寿の記念に父とふたり訪ねた。もちろん生家の残るはずもない。無等山という小高い丘があり、丘の見えた角度と、かつての光州神社と川を頼りに探っただけであった。今は人口100万を超える大都市。朝鮮動乱を機に、北から南へ人が大移動したのである。全羅南道は韓国の中でも疎外されつづけた地域。光州暴動もそこに起因する。選挙では9割以上が金大中に投票する。地域の希望の星でもある。ノーベル平和賞の喜びようはどんなにか凄いものだろうと想像がつく。しかしこれが終りではなく始まり。東西ドイツもそうであったが、ベルリンの壁が崩壊し、統一がすべてを直ぐに解決しそうにみえたが10年経た今も混乱が続く。歴史は性急ではない。印象に残る金氏の発言「北に東ドイツに学べという前に、われわれが西ドイツのように寛容になれるかどうかだ」。こんな隣国の国際状況の変化に、われわれはただひたすらに腕組みしているだけ。戦後55年にして、その清算を終えていないツケは重い。

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