石田昌夫兄逝く

 最も多く酒席を共にした先輩である。年齢は3歳上、入社は1年先輩という間柄だが、まるで対等な友人のようにふるまっていた。享年78歳。夭折に憧れていたこともあったが、平均寿命の誤差の範囲。ウィスキー、ジャズ、ミステリー小説。この3点セットをこよなく愛した。あと加えるとすれば、たばこ。両切りピースが50本入ったピー缶を愛用し、鴨居に並べて悦に入っていた。老年になってはパイプもくわえていた。イタリア語で好事家と訳されるディレッタントを、目指していたのかもしれない。そういえば、ある時、塩野七生の「ローマ人の物語」に夢中になって読破、日本の政治の愚かさをいい出した。その後イタリアに2度も出かけた。ひとり旅を苦にしない。見知らぬ外国人にも溶け込んでいける不思議なコミュニケーション能力を備えていた。普通のオトコがこれほど人生を楽しめるというお手本だと思っている。

 1942年の生まれ、4人兄姉の末っ子。郵便局長を務めた父親は、15歳で洗礼を受け、富山鹿島教会の長老でもあった。本人は無宗教を通したが、家族はキリスト教葬を選んだ。富山工業高校を出て不二越に勤務したが、やはり肌が合わなかったのだろう。3年過ぎて、アメリカでジャズを勉強したいといい出して退職した。兄がその前に手に職だろうと助言し、大阪のデザイン専門学校に進む。ジャズ喫茶に入り浸る生活を送ったらしい。67年北日本新聞社の広告デザイン課に収まった。自由闊達な社風は、若い社員にとってパラダイスだった。タイムレコーダーも、出勤簿もなかった。勤務が終わると、誰彼なく駅前の居酒屋か、麻雀荘に流れた。二人ともアパート住まいもあり、連日連れだって飲み歩いた日々。

 富山駅前の居酒屋「初音」での事件も忘れ難い。ふたりで知ったかぶりの哲学的な話をしていたら、隣に座っていた兄さんが「偉そうにしやがって、表に出ろ」と、今にも飛び掛からんばかりのいいがかり。こちらが顔をこわばらせていると、いままで眠そうにしていた初音の親父が突然カウンター越しにその兄さんの襟首をつかむや、店から放り出し、ぶん投げていた。ことなきを得たが、バツの悪さと無力感で、それぞれ別に歩いて帰った。

 ジャズへの手ほどきは、富山のおけるジャズの草分け「ファイブスポット」の亡き榊原吉明だった。ふたりは親友で、石田兄はポールと呼ばれていた。ジャズは生き方も変える。その奔放で自由な生き方は目を見張らせた。アフリカに出かけ、子どもたちの教育支援をし、自らは壊疽で足を切断して車いす生活を余儀なくされても、若い女性と結婚するなど破天荒そのものだった。石田兄は中年になってから、彼を避けるようになっていた。自らの安穏で保守的な暮らしぶりが引け目になっていたのだろう。

 Ⅿan is mortal(マン イズ モータル)。生老病死をどうさばきつつ、どう最期に逝きつくか。3年前の軽い脳梗塞が引き金となり、脊椎管狭窄症に悩んでいたことも重なり、フレイルに拍車がかかった。昨年10月に肺がんの末期と診断され、他への転移もあり、余命宣告を受ける。在宅での看取りも選択肢と相談にのったが、最終的に富山県立中央病院緩和ケア病棟となった。「ようやく漕ぎつけた気持ちです」という夫人の言葉に納得した。

 ところで、緩和ケア病棟は、がん患者に限られ、順番待ちという現状からすると誰もが利用できるわけではない。上野千鶴子「在宅ひとり死」(文春新書)も説得力はいまひとつ。いまの結論は、ケセラセラと居直るしかないようだ。

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