同窓会幹事の役得

中学を卒業して40年になる。その記念の同窓会をやろうということになった。どういう風の吹きまわしか、幹事役が舞い込んできた。何とかなるだろうと安請け合いはしたものの、結構苦が手な、こまめさが求められる。早速名前を間違えて苦情をうける破目に。ひっくるめて楽しんでしまえが、わが身上。その通りに成り行き任せに進行はしているが、7月14日全日空富山ホテル。はてさてどんなドラマが待っているのだろうか。

中学といえば、入学して最初の学級委員選挙。どういうわけか黒板に投票数を書いていく係だった。「はっとりさん。一票」の声に、「八鳥」と書いた。「違う、違う」の大合唱に右往左往、周章狼狽。教壇上で立ち尽くしてしまった。「服部」と思い浮かぶわけもない。読み上げる係であれば、「ふくべさん。一票」と読んでいたはず。新湊小学校から附属中学へ。それも自分の意志ではなく、5年生の時に担任した舘富子先生(下村で健在)の強い働きかけ。でも受験勉強は嫌いではなかった。ラジオの「一丁目一番地」「お父さんはお人好し」「三つの歌」を愛聴しながら、全国中学入試問題集を解いていた。楽しくもあった。したがって、中学はちょっとしたカルチャーショック。12歳にして、苦労もし、悩みもしたのである。田舎小学校出身というコンプレックスも手伝い、よく短気を起こして喧嘩もしていた。成績も150人中70から80番。3年生で数学の出来のいい時だけ、上位につけられた。いまでも感謝しているのは、職業家庭の長枝先生。どういうわけか簿記のセンスがよかった。貸方借方が理解できたらしい。職業家庭は5。君はなかなかにいい、とさりげなく声を掛けてくれた。その時はじめて何かが吹っ切れた。そんなこともあり、大学は経営学か、商学かと思っていた。将来は商社にはいり海外勤務もおぼろげながら視野に。ところがこの時身についた英語コンプレックスが災い。大学での遊び癖も手伝って、ついにローカルにして、ドメスティックな企業にどっぷりと漬かってしまうことになってしまった。君は全力で人生に立ち向かってきたのか、と問われたりしたら、申し訳ありません、と頭を下げざるを得ない気がする。

それはさておき、同窓会の案内をITを駆使してと思い、予告にメールを書き込んだが返事はまばら。程遠い世代なのだと再認識。結局は往復はがきに落ち着いた。でも思いも掛けず、ニューヨークからメールが届く。中学卒業と同時に父親の転勤で四国に移った三津浜恵子さん。深窓の令嬢という感じで、ちょっと声を掛けられない存在だった。高岡からのバス通学で、吉川英治の宮本武蔵なんかを読んでいた。結婚した夫君の関係でNY在住10年。このために出かけて来るという。こんな美人に「三津浜が屁をこいた」と騒いだ愚かで、幼稚な男もいた。東京工業大学で化学をやって三菱化学研究所にいるというが、今度どんな対面になるか興味深い。その他癌の告知をうけて、最後になるからと走り書きしてあるもの。リストラによる転籍で心ならずもの職場に。これが世相を反映してほんとうに多い。そして、何よりも物故者が10人を数える。

現在先生3方と同期生52名が出席の返事。この種の会は帰路に着いた時に、なんともいえぬ寂しさが込み上げてくる時がある。おもろうて、やがて悲しき宴かなというやつ。願わくは、それを超える、もうしばらく生きてみるか、と思えるものにしたいのだが。どうなることであろうか。

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