“こころ”という代物

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。そんなゴーギャンの苦悩には及びもないが、もやもやした気分はどうも限度を越えようとしている。気候の鬱陶しさもこの気分に拍車をかけているようだ。この“こころ”という代物、これほどやっかいなものはない。どうして、こうも翻弄されなければならないのか。こいつを何とかつかまえて、自家薬籠といかないまでも、制御可能なものにしたい。そのためにも、こいつの正体を突き止めねばならない。つまり人間の精神活動というのは、どんなメカニズムで動いているのか、だ。ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進の「精神と物質」(文藝春秋刊)なるものを引っ張り出してきた。「基本的には、生命の神秘なんてものはないのですね」。評論家・立花隆が、利根川に問いかけている。
 「生物というのは、もともと地球上にあったものではなく、無生物からできたものです。無生物からできたものであれば、物理学及び化学の方法論で解明できるものです。要するに、生物は非常に複雑な機械にすぎないと思いますね」。立花は突っ込む。精神現象というのは重さもない、形もない、物質としての実体がないのだから、物質レベルで説明がつくのか。「そんな性状を持たないもの、例えば電気とか磁気も現代物理学の対象です。脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究すれば、人間の精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことができると確信します」。更に挑むように利根川はいう。「人間の知能がどう発達していくか、性格はどう形成されるのか。きちんとした原理がわかった上で処方が下されていない」とばっさり切り。「地球の歴史上である時、物質に化学進化が起きてDNAができた。それがずっと自己複製しながら、進化を続けてここまでやってきた。それが我々ですよ。我々の自我というものが、実はDNAの自己実現にすぎないと考えることもできるわけです」。我々は何者か、の問いには、DNAが<あなた>に仮託している生命体だという答えになる。
 待てよ!これは仏教哲学の清沢満之が「絶対他力の大道」で示した認識と同じではないか。「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾(ほうに)にこの現在の境遇に落在するもの即ち是なり」ということは、あんたは落在したDNAをまとっているのよ、といっているのだ。科学と宗教の認識が一致したといっていい。
 とすれば、こころ悩めるわが若き友人達よ。もっと楽に考えよう。君は君を生きようとしているが、もっと違うものが君をこうして生かさせているのだ。君の責任ではない、自己というのはそれほど不確かなものなのだ。そこでだ、心の病というのはどう考えればいいのだろうか。いい加減で、無責任を承知でいえば、医師と薬だけでは自分を取り戻せないと思う。また取り戻すこともない。新しいDNAに乗り換えて、新しい自分を発見して生きることではないか。時間をかけて、身にまとっているDNAをゆっくり脱ぎ捨てて、新しいDNAの新着を身につけること。それも他人が着せ替えてくれるのではない。自分でそんな動作をゆっくりイメージして、こころの病に向かい合ってほしい。とにかく自分でやらなければならない。「絶対他力の大道」を毎朝、声を出して読んでほしい。読書百篇、音読は特にその効果もあり、意は自ずとしみ込んでいくと思う。
 他人を踏みにじっていけば社会的に優位に立てるという時代ではない。次から次とハードルが立ちはだかる。まるでトーナメント戦の様相だ。このままではみんな自滅してしまうのは間違いない。こころ病む人たちはそんな時代に警告を送るカナリアの役割を果たしているのだ。胸を張って生きてもらいたいと切に思う。
 私事ながら、3日早朝、95歳の母が誤嚥性肺炎で、施設から病院に緊急入院した。歩行器で何とか歩き、トイレも済ませていたのが、この2週間の入院で恐らく車椅子になるのではないかと危惧している。
参照・「誤解だらけのうつ治療」(集英社)

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