日本婦道記

直木賞を辞退したただひとりの作家がいる。山本周五郎。読者から与えられる以上の賞があるとは思われぬ、という信念である。昭和18年の第17回直木賞で、対象作品が「日本婦道記」(新潮文庫)。11編を収める時代物の連作短編集で、女の生き方を綴っている。5歳にして両親を失い、養女となったお石が、物心ついて自分の出自を知り、養家に迷惑を掛けると知るや、自ら身を引いていく「墨丸」。未亡人となって、遺児を育てるために、弓の矢作りを生業とするが、その矢に小さく大願と20年間彫り続け、それが将軍の目に留まり、お家の再興を果たす「箭竹(やだけ)」などだ。厳しい武家の定めの中で夫のため、子のために生き抜いた妻や母を、清々しい強靭さ、凛とした美しさ、あふれる哀しみで感動を呼び起こす。日本女性の美しさは、その連れ添っている夫も気づかないというところに非常に美しくあらわれる、とする。戦時下で用紙事情もあり、雑誌社側からの枚数制限も厳しく、ムダな描写は木の葉一枚でも許さぬ、という制約のもとで書かれた。また、それを逆手に作家は短編技術の習得にその技を磨いたともいえる。
 山本は明治36年の生まれで、本名は清水三十六(さとむ)。8歳にして小学校の先生から、「君は小説家になれ」とその文才を認められた。家の没落で、小学校卒業後、東京木挽町の山本周五郎質店に徒弟として住み込むことになるが、そこの店主の庇護の下に創作に励むことができた。肉親以上の父親と感じたといい、店名そのままをペンネームに使って、尊敬と感謝の念をあらわしている。性格は「曲軒」とあだ名されるほどの偏屈さだが、学歴と容貌のコンプレックスからきている。そういえば松本清張と似ていて、同じく三島由紀夫を嫌い、反骨精神からか、「樅ノ木は残った」「赤ひげ診療譚」「虚空遍歴」「ながい坂」など多作である。読者を誘う語り口のうまさ、計算されたリズムは秀逸で、山周ワールドといい、誰もがはまり込んでしまう世界を作り出した。
 漱石や鴎外は悪妻に苦しんだとされるが、山本はそうではなかった。最初の妻きよいは、自分は大衆作家の妻になったのではないと口にして、純文学への志を励まし続けた。すい臓がんで昭和20年に亡くなるが、本棚を解体して棺桶を作り、葬儀場までリアカーを引いている。再婚の相手はこの時、病妻や幼子の面倒を見てくれた近所に住むきんで、市電で3駅離れた仕事場まで毎日夕食を持参した。この二人の妻もさりげなくモデルにして婦道記に書き込んでいる。昭和42年、63歳で亡くなるが、絶筆となったのが「おごそかな渇き」。朝日新聞の日曜版での連載だったが、当時大学の3年でよく覚えている。賞をまったく固辞した本人の名前を冠した山本周五郎賞を創設した新潮社の態度もちょっと矛盾しているように思える。余程売り上げに貢献したのであろう。また周五郎が山口瞳を、ありがたい作家が現れたのだと絶賛しているのもうれしい。
 その山周にはまったのが大学1年の末頃だった、涙さえ流して読んでいた。そして、今にして思うと冷や汗ものだが、「日本婦道記」1冊を贈って亡妻へのプロポーズ代わりとしたのである。男にとって、これほど心地いい世界はない。妻たるものは、夫や子のために犠牲を払うのが美徳であると説くのである。どんな気持ちで読んでいたのであろうか、一度聞いてみたかった。亡妻の同級生でもある上野千鶴子なら、時代錯誤もいい加減にしてよ、山本周五郎は戦争協力者なのよ、と文庫本で顔を2~3発張られていたに違いない。
 1月7日亡妻の命日である。ということで、9年忌を、思い出の文庫本を読み返すことで迎えることになった。
 あらためて、おめでとうございます。昨年は本の押し売りなどで、大変なご迷惑を掛けました。おかげさまで所期の目標を上回ることができました。また、居酒屋では、ぼったくり商法でこれまた多大なご損害をお掛けして、申し訳ありませんでした。ことしは静かに過ごしたいと思っております。

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