「土と内臓」

 翻訳本だが、題名をどうするかは売れ行きを決定的に左右する。原題「The Hidden Half of Nature」を「土と内臓―微生物がつくる世界」とした築地書館スタッフのセンスを称賛したい。「隠された自然の半分」などとしたら、とても手にする気にはなれない。恐らく翻訳者の片岡夏美がひねり出したのだろう。青山学院英米文学科卒の64年生まれ。92年よりダム・水資源問題に関する文献の翻訳に携わるとあるが、フリーの志の高さが垣間見える。テクニカルライティングという専門職能にも注目したい。

 著者は米国人夫婦で、シアトルに引っ越し、小さな庭づくりを始める。ところが庭は石とがれきにシャベルがはね返される。生物学者でもある妻は落ち葉や、スターバックスのコーヒーかす、動物の糞尿ごみなどの有機物を庭に投入してみると、死んだ庭が見る見るうちに息を吹き返しはじめた。1年後にミミズがはい出し、3年後には近所の人が驚くような豊かな植物が茂り出した。ところが夫人が子宮頸部にがんを発症する。手術での摘出を選ぶのだが、土壌が微生物でこれほどまで変化するのだから、術後の体内を微生物でがんに強い体に変えていこうという発想で、食事をラディカルに見直していく。つまり微生物は土壌の健康と人間の健康に重要な役割を果たしていることを自覚し、実践する。大げさではなく、天動説から地動説へ変わるような科学革命の時代に生きており、その革命の主役は数十兆に及ぶ微生物だ。現代人の最大の誤解は、微生物はすべて悪玉だと思っていることだ。だから、抗生物質や化学肥料を乱用して、微生物の抹殺に躍起になる。だが、多くの微生物は悪玉ではない。腸内の有用な微生物まで滅ぼしてしまった結果、アレルギーや過敏性腸症候群などの自己免疫疾患や肥満、糖尿病、うつ、婦人病までが引き起こされている。それは植物においても同じで、除草剤や農薬、化学肥料によって土壌の微生物を失った結果、野菜などに含まれる栄養素は数十年前と比べて激減しているという。

 話はそれるが、思い出すことがある。免疫学者にして名随筆も書き、加えて能作家でもあった多田富雄エピソードだが、日本補完代替医療学会の初代会長を務めている。01年に金沢で脳梗塞で倒れ、死線をさまよった多田はその地で治療に専念するしかなかったが、そのつながりであろう。代替医療を科学的なエビデンスがないということで排除する気風は強いが、脳梗塞からの回復過程で実に不思議な経験をした。脳神経に情報を送る新しい回路ができているのではという発見で、もうひとりの自分が生まれているという希望でもあった。まだ医学にはわからないことが多い。西洋医学で市民権を得ていない鍼灸、指圧、アロマテラピーなども人間全体を見る角度から見直してもいい。終末期には指圧マッサージを保険診療で、はわが持論。

 さて、得意の俗論に入る。わが腸内フローラなる自然治癒力を信じて、薬はほとんど飲まない。胎内に棲む数兆もの微生物に栄養を与えるイメージで食事をし、頼むぞと大腸部分をポンポンと叩きながら、サインを送る。この健康法で、頭痛、腹痛とも無縁で、風邪の記憶も思い出せない。ところが、俺もそうだ、と意気投合していた山崎彰・富山平和運動センター議長が4月3日に大動脈瘤破裂で急逝した。70歳であった。衝撃的な出来事だったが、やむを得ないと思うことにしている。いのちが土に還る。微生物の循環と思えば、死もまた自然なこと。

 追伸となるが、この著者夫婦にはエージェントが付いている。この出版も企画から、話の筋の展開、まとめ方までアドバイスがあったというが、出版だけに限らず、人生の水先案内人的な役割ではないか、と思う。知的なお節介おばさんをイメージしているが、こんな存在がいると人生は楽しくなるかもしれない。

 

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