今生のいまが倖せ・・

今生のいまが倖せ衣被(こんじょうの いまがしあわせ きぬかつぎ)と続く。衣被とはサトイモのことで秋の季語。ご存じ鈴木真砂女の句だ。逝ったのは平成15年3月14日、享年96歳。娘の本山可久子が母真砂女への思いをつづった。表題が書名。可久子は文学座の俳優である。娘といっても親子の縁は薄かった。真砂女の最期に興味もあり、母と娘のあり方や如何に、と手にした。講談社刊 1800円。
  やはり最期の4年間は入院生活で、痴呆も進んでいた。「あんたに貸したお金返してよ」「あんたの世話になんかなっちゃいないんだから、私は大いばりでいてやる」と痴呆による言葉の暴力に悩まされている。そういえば丹羽文雄はどうしているのだろうか。銀座に「卯波」を出す時、催促なしのお金を貸してくれたひとりが丹羽文雄だったという。誰しも老いの試練を避けて通れぬものらしい。現在、卯波は孫の宗男が継いでいる。先日店の前まで行ってみると、間口一間の小さな店がお稲荷さんの路地にあった。
千葉鴨川の老舗旅館「吉田屋」の三女に生まれた真砂女の生涯はこうだ。5歳の時、母親が亡くなっている。祖母と継母に溺愛され、しつけもされずに育った。もの怖じせず、自分勝手で、生涯他をはばかることを知らない性格はこの時の影響。嫁いだ先で一人娘、可久子をもうけたが夫が賭博の失敗で出奔、3歳で義姉に預けて真砂女は実家に戻っている。出戻りを気にする風もなく、気ままな生活だった。この時姉が俳句をしていたので、自然に投句をしている。最初の俳句手帳に昭和10年作句とある。その姉が急逝し、そのあとに直った。明るくしゃきしゃきな女将ぶりは、丹羽文雄、久保田万太郎、近藤啓太郎、石田波郷などの気持ちをこの時に掴んだのだろう。しかしひと回り上の義兄に妻として務まるわけもない。ひと悲します恋をした相手は7歳若い海軍士官。彼を追って長崎に出奔するなど、いろいろあったがこの恋は彼が死ぬまで続くことになる。50歳の時に、その生家と訣別する。ひとり娘のところに身を寄せ、思案の末に「卯波」を開店する。昭和32年のこと。客商売がもっとも好きな真砂女が輝きだす記念の日といっていい。ここから生活俳句、人生俳句が次々と生み出されていった。
その恋人もひとり卯波の片隅で杯を重ねていた。その彼も昭和52年脳血栓で急逝する。その命日は奥さんに譲るが、次の休日には墓参りを欠かさなかった。持参したコップ酒をジャボジャボと墓に掛けてお参りするのだが、奥さんも亡くなり同じ墓に入ってからはピタリと墓参りはやめてしまう。そこで初めて嫉妬を感じたからがその理由、かわいい女である。
可久子はしみじみ思う。「あんなに好きだった彼とも、もし一緒になっていたら、やはり母は別れていただろう。一人の男に制しきれる女ではないのだ。小さな身体いっぱいにつまった情熱は、誰の手にも余るものだった。それでもちゃっかりぬけぬけ生き続け、そのくせ誰にも憎まれず、困った人だと思っても、母を拒絶することはできなかった」。可久子も宗男をもうけたが最初の結婚に失敗し、次に再婚をして幸せな生活を送っていたが死別してしまうという不運を背負っている。母娘して男運がなかったねと嘆いている。一度卯波の暖簾をくぐらなければなるまい。
ところで3月11日、12日は東京都立高校の卒業式のピークであった。昨年より厳しく生徒に対して国歌斉唱をするよう校長の職務命令が出されていた。ある高校では生徒が「校長先生と都教委にお願いします。これ以上、先生方をいじめないでいただきたい」と叫ぶと会場から20秒間拍手が鳴り止まなかった。別の高校では、国歌斉唱では全員が立ったが、校長あいさつでは生徒全員が起立を拒否した。もう生徒の方が見抜いている。先生をかばうために歌うしかない。生きていくためには、良心を隠さなければならないのか、と。そんな教育があるだろうか。

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