「言の葉」茨木のり子

言の葉を紡ぐといったらこの人を挙げる。茨木のり子。1926年大阪生まれ。大正15年か、はたまた昭和元年か。多分ことしが喜寿である。写真で見る限り、大柄な人だが、目鼻立ちくっきり、大変な美人である。意志が強そうでいて、男あしらいが抜群にうまい。金子光晴の詩に「なじみ深いおまんこさんに言ふ サンキュー・ベリマッチを」が嵌め込まれているが、これも懐かしい気分と受けとめる度量だ。

経歴を見ると理系の人でもある。43年帝国女子医学薬学理学専門学校(現・東邦大学)に入学とある。一応薬剤師の免状を得ているが、ペーパードライバーのようらしい。父親に薦められるままの進路であったらしく、限界を感じて戯曲家を志すようになる。そこに才能があったのだろう。46年に読売新聞戯曲賞の選外佳作をとっている。しかしその後、の言葉に物足りなさを覚え、詩作を目指すようになる。その時に出会ったのが金子光晴の詩。戦前、戦中、戦後をいっぺんに探照燈のように照らし出してくる強烈なポエジーで、眩惑を覚えるほどだったという。学徒動員で海軍療品廠で就業中、敗戦の放送を聞いたのだが、その時の残念さが詩となって、「わたしが一番きれいだったとき」に。「わたしが一番きれいだったとき だれもやさしい贈り物をささげてはくれなかった 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった」。

49年に勤務医・三浦安信と結婚。夫は一度も物書きの道を進むそれを卑めたり抑圧することはなく、むしろのびのびと育てようとしてくれたという。しかし25年間生活を共にした夫は癌に倒れてしまう。茨木のり子の感覚は、それからの生活をこんな具合に捉えている。そして皮肉にも、戦後あれほど論議されながら一向に腑に落ちなかった〈自由〉の意味が、やっと今、からだで解るようになった。なんということはない「寂寥だけが道づれ」の日々が自由ということだった。この自由をなんとか使いこなしてゆきたいと思っている、と。

1月7日が妻の7回忌。なにをプレゼントしてやろうかと思っていたところ眼にはいったのが「茨木のり子集 言の葉」全3巻、筑摩書房刊。相変わらず、見栄っ張りなことと皮肉まじりな声。でも満更でもなさそうだ。

「倚りかからず」がベストセラーになったのは一昨年。「もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある 倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」。

「もっと強く」では、「もっと強く願っていいのだ わたしたちは明石の鯛がたべたいと すりきれた靴はあっさりとすて キュッと鳴る新しい靴の感触を もっとしばしば味わいたいと なぜだろう 萎縮することが生活なのだと おもいこんでしまった村と町 家々のひさしは上目づかいのまぶた 女がほしければ奪うのもいいのだ 男がほしければ奪うのもいいのだ ああ わたしたちが もっともっと貪婪にならないかぎり なにごとも始まりはしないのだ」

さて、7回忌とはいえこの丸6年。何のことはない、日常の瑣末事にただただ追われただけ。「寂寥だけが道づれ」に正面から向き合うこともなかった。人間の感受性ほど危ういものはない。泣いた涙はすぐにかわいてしまう。

のり子の叱声が聞こえてくる。「初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」

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