パスポートの記憶

 戦後生まれの引揚者にとって、海外は夢の夢であった。高校2年の時にAFS(アメリカンフィールドサービス)で同期生4人が米国留学を果たした時は、たまげてしまった。4人とも付属中学出身ということもあり、秘密結社でもあるのかといぶかしんだ。その中のひとりは近藤和彦で、誰もが認める天才だった。なにしろ大検で高卒の資格を取る秘策を駆使し、高校2年間修業で東大に合格してしまった。その後分子生物学を専攻し、将来はノーベル賞と思っていたが、40歳に届かずに夭折してしまった。こちらの、いつしかアメリカという夢は1975年の30歳まで待たねばならない。彼らに遅れること14年である。後年になってAFSやフルブライト奨学金など米国のソフトパワー戦略の意図がようやく透けて見えるようになった。抑圧されているのに、恩恵を受けているような錯覚だがこの根っこは深く、罪深い。

 さて、コロナ・ホームステイは家中の整理を促してくる。滅多に開けない机の奥底からパスポートが見つかった。そういえば期限が気になっていたのだが、案の定有効期限2020年7月16日とある。10年間で3回の渡航記録はさみしい限りであるが、はてさて更新するのかどうか。いみじくも後期高齢者入りと時期が重なる。75歳から取り敢えず5年、そしておまけの5年で85歳。何が待ち受けているかわからないが、進まなければならない。ひょっとして二人旅も舞い込むかもしれないと、しばしパスポートを見入った。

 最初のパスポート取得は70年の香港・マカオ。富山市商店街連盟の売り出し特賞で、1名申し出がなく、連盟会長でもあった牛島屋の武内会長がまわしてくれた。上司にも掛け合ってくれて出張となったのだから、感謝である。高度成長でもあり、時代はのびやかだった。初めてのアメリカは30歳の時、大学職員であった友人の水間英光がハーバード大学の夏季研修で行くと知らせに動揺する。これから先、あいつにアメリカではと口にされるのは堪らない。たまたま東京勤務という利点もあり、ニューヨーク5泊のパック旅行に飛びついた。水間とはニューヨークで合流し、ワシントンからボストンと3日間遊んだ。思い出はボストン港の突堤にある高級レストラン「ピアフォ」。ドレスコードがある本格派。ここでワインというのはこんなにうまいものか、と今でも語り草となっている。

 いま一度のニューヨークは97年の夏。3人の息子たちにパスポートも用意して親子4人での、おかあさん慰霊の旅となった。同年1月7日に妻は肺がんに倒れ、新盆となるのだが、神妙に型通りではこの悔しさが表現できない。ハドソン川に散骨しようと自ら嗾(けしか)け、やけくそ気味の旅行予算200万円での決行。葬儀をせず、法事もしなかったので、お母さんからのプレゼントだと息子たちに伝えた。

 やはり渡航5回を数える韓国への旅が主流である。亡き父とわが生地である光州を訪ねた時、無等山に向かってこの角度だから、ここがわが家であったといい聞かせる弾んだ父の声が今も耳に残る。

 そうした記憶をたどると、新しいパスポートには真っ先に韓国を記すべきだろう。できれば光州にある山口韓国語学院に短期留学だ。そこには日本人専門の10週コースがある。もちろんホームステイをして光州の人々と語り尽くしたい。マッコリで酔ってきたら、新井英一の「清河(チョンハー)への道」を歌いあげる。それが当面の夢である。

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