立山登拝

筋肉痛で階段の昇り降りに顔をしかめている。9月11日、雄山3,003m、大汝山3,015mへの登頂を何とかやってのけた。最後は友人のストックを借りながら、一の越から足をもつれさせて室堂に辿り着く無様さで、「まるで競歩競技で倒れこむようだな」との失笑を買ったが、気にかける余裕はなかった。その後、グリーンビュー立山で入浴し汗を流したのだが、みんなクライマーズ・ハイという感じで、「呑まぬわけにはいかないだろう」ということで一致した。下界に降りてひたすらビールを呑み干し、「毎年登ろう!」を酔眼朦朧としながら誓い合ったが、記憶に残っているかどうか。
 さて、思い起こすに体力の衰えだ。45年前、大学3年生の時で、アルペンルートは全線開通していなかったが、美女平―室堂間はバスが運行していた。亡き友人の野村慎吾がみくりが池山荘でアルバイトを始めており、その休日を利用して剣岳に登ることになった。午後3時ごろに室堂に着いたら、夕食までに雄山に登ってきたら、と野村に勧められて、ほぼ2時間余りで往復したのである。そして翌日剣岳に挑み、その日の夕方には新湊の実家に帰っていた。それがどうだ。大汝山を加えたにしても5時間30分と倍以上の時間を要したのである。しかし、落胆というほどでもなく、素直に受け入れていた。
 大きな自然に向き合うと、人間誰しも謙虚になれる。一の越の途中にある祓堂の前では、自然と手を合わせているし、峰本社では素直に額ずいている。21歳での2時間が、66歳のいま5時間を要しても、受け入れるしかないと思える。一個のちっぽけな生命体であるという今更ながらの自覚でもある。時間とエネルギーに対する概念も変えなければならない。
 20年前に「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公新書)を出した本川達雄東工大大学院教授が「生物学的文明論」(新潮新書)を書きあげた。数学・物理学的な発想ではなく、生物学的な発想で、現代社会を見つめ直してはどうかという警世の書である。
背景には東工大で生物学を教える肩身の狭さがある。先端的な技術者を目指す学生に、サンゴや海鼠(なまこ)の生態を講義するのだから、なかなかに工夫を要する。むしろ、ヒトはそれほど賢くはないのだぞ、と諭す感じだ。
 例えば、絶対時間に対して、感じる時間を挙げる。30グラムのネズミと3トンのゾウでは、感じる時間はゾウのほうが18倍遅い。動物の時間は体重の4分の1乗に比例する。ところが、体重あたりのエネルギー消費量は体重の4分の1乗に反比例する。ゾウはネズミの18倍のエネルギーを使うということ。短い寿命のネズミも、長生きのゾウも生涯使うエネルギーは同じという法則だ。どちらが得とも、幸せともいえない。
また生物の時間は、逆戻りせず、死に向かって進むが、回転する時間も持っている。生殖を通じて継続する生命を授かることを指している。こんな生物学的論理を理解していれば、原子力を持つことはなかったであろう。
 ところで、縄文人の寿命は31年であったという。15~16歳で子供を作って、ある程度子育てをしてバトンタッチをしていく。そんな縄文人の31年の生涯を想像してみる。童たちを集めて集落での教育だ。採取、狩猟、武闘、土器作りが授業内容。性教育は、最も大切なものとして教えられる。多子若齢化ということは多産多死なので、土偶にあるように安産型の女性があがめられ、食物の優先権と男性選好権が与えられる女尊男卑社会だ。婚姻制度はない。原始共産社会ゆえ、私有財産は認められず、公に殉ずることが最高の美徳とされる。そして、あの火焔土器に見られる芸術性はどうだ。ゆったりとした時間と豊かな感性があったからこそといえる。縄文人の31年も悪くはないのだ。
 はてさて、枯れない老人というのも困ったものだ。来年といわず、来月中旬に紅葉の立山に挑戦したいと思っている。口には出さないが何が何でも4時間だ、と。

© 2024 ゆずりは通信