「蒼蠅」熊谷守一

無欲恬淡(てんたん)、天真爛漫が絵を描く。「下手な絵も認めよ」「紙でもキャンバスでも何も描かない白いままが一番美しい」といい、昭和天皇がその絵を見て「子供の絵か」と尋ね、説明役の宮本三郎が「七十いくつの年寄りの絵です」と答えている。画仙・熊谷守一。90歳を過ぎた最晩年の言行録をつづった「蒼蠅」(あおばえ)の新装改訂版が出た。光った蠅。みな嫌うけれど私は好きです。あれがいるとにぎやかです、と。初版は昭和51年で求龍堂刊だが、定価2500円と1000円も安くなっている。
 とにかく45年間自宅の敷地から一歩も外へ出ることなく、庭の動植物を飽かずに眺めたという伝説の持ち主である。96歳にして「獨楽」と揮毫し、人にはわからないことを、独りでみつけて遊ぶのが、わたしの楽しみ。地面に頬杖つきながら、蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです。画仙と呼ばれる所以である。
 明治13年に岐阜県恵那郡付知(つけち)村に生まれ、昭和52年97歳で没した。父親はやり手であったが、妾を何人も持ち、熊谷は生母ではなく、第二夫人の養子となって育てられた。そんな境遇が通俗を最も嫌う性格を作り出したのかもしれない。父親の急死で家は破産、当時の金で50万円の借金を受け継いだ。今だったら数億円か。借金取りがやってきたが、ボロボロの下宿を見てこれは駄目だと諦めて帰っていったという。極貧の中でも品性を失わない。学友の斉藤豊作が「金が要るならやろうか」というんで「貰おうか」と返す。斉藤がパリに留学するまで4~5年続いたようだ。
 二科展に「某婦人像」を出品するがこれが結婚相手となる秀子がモデル。どうも画学生の妻であったのに構わず結婚を申し込んでいる。大正11年熊谷42歳、秀子24歳。前夫との間に子供のなかった秀子に、結婚した途端次々と5人の子供が生まれる。名声も富にも関心のない熊谷のさわやかな色欲は微笑ましい。しかし子供のために絵を描くわけではない。そのためかどうか別にして3人の愛児を亡くしている。「陽が死んだ日」は大原美術館に収蔵されている。次男の陽が4歳で死んだ時に、陽がこの世に残す何もないことを思って、死顔を30分ぐらいで描いている。描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって絵筆を止めた。「絵を描くより遊んでいるのが一番楽しいんです。石ころ一つ、紙くず一つでも見ていると、全くあきることがありません」。仕事場に入っているからといって絵を描いているわけでなく、時計の分解などをしていたりする。85歳の時、文化勲章の打診があったが「わたしは別にお国のためにしたことはないから」と辞退し、「もっと放っといて長生きさせてくれっていうのが正直なわたしの気持ちです」。
 45年間閉じこもった自宅は池袋西郊の千早町にあり、35坪の平屋に50坪の庭だ。この庭がお気に入りで、様々な木々を植え、ほとんど手入れなるものをしない。鬱蒼と茂った中に池も作って、魚や小エビを入れている。土門拳、藤森武の写真家師弟が長期にわたって撮影をしているが、いい写真だ。
 熊谷の作品は現在号100万円を超えているが、「むかし50年間ぐらいちっとも絵が売れなかったのだから、少しぐらいあがってもいいでしょう」が妻・秀子の弁。次女・榧(かや)が熊谷美術館主を務めているが、この母娘の現実的な生き方も、女だなと妙に納得してしまう。
 さて、韓国との外交関係がおかしくなってきた。当然予見できたこと。小泉が「日本を守ってくれるのはアメリカなんです」と国会答弁で繰り返すのを聞いていると、どうも鼻白んでくる。竹島問題は韓国の歴史を学ぶ絶好の機会としなければならない。

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