小児がん科医

 こどもの終末期医療など想像したくないが、生老病死は老少を問わない。「当初、幼い患者が亡くなるとすぐに泣いてしまう自分は医師にむいていないと思った」。しかし、子どもの無念を共にしてくれる人がいることは家族の支えになるとある日気づき、「泣かなくなったときは医者を辞めるときだ」と思い定めた。朝日新聞20年10月1日の「折々のことば」は小児がん治療に取り組む小児科医・細谷亮太を紹介している。たまたま手にしていた「聖路加病院 生と死の現場」(岩波現代文庫)に細谷医師が取り挙げられており、小さな偶然にうれしくなって、テーマとした。

 小児がんの原因は、成長に伴う活発な細胞増殖が関係しており、筋肉、骨、神経、血液などから発生する肉腫である。親のせいでも、本人のせいでもない。避けがたい犠牲を自ら引き受けるしかない。小児がんの80%は、見つかった時、すでに全身にひろがっていることが多いが、いまでは抗がん剤や、放射線治療によって70~80%治る時代になっている。

 細谷は48年の生まれ。小児がんを志すなら、アメリカへ行くべきだとの助言を得て、テキサス大学に3年間留学した。その頃のアメリカは、日本の10以上先をいっている。そこで小児がんは治る病気だという実感を得た。「君と白血病。この一日を貴重な一日に」(医学書院)。米国の女医が書いたのを、細谷が翻訳して上梓した。最初は「子どもに告知する段階ではない」「生々しすぎる」と受け入れられなかった。しかしその後、版を重ねている。実際の現場もきれいごとで終らない。病院を経営する立場からすれば、小児科は人件費がかかる割に収入は少ないし、医療過誤も起こりやすい。小児科医を目指す学生も多くはない。あの日野原重明も二の足を踏んでいた。日野原のプラグマティズムは、また大きな予期せぬダイナミズムを生む。自らの母校であるデューク大学にできた小児病院を見て感激して、変わった。細谷にも見学するように進めて、聖路加小児医療センターができあがった。小児病棟36床、新生児室40床で、保育士、院内学級の教師、小児心理士などを含めたトータルケア体制を整えた。もちろん安心して暮らせる自宅での終末期医療にも、サポート体制を取っている。

 13歳で肺がんを発症したサトシ君のケースだが涙なしで読めない。全身の骨に転移し、絶えず激痛が走る。肺には水がたまり、呼吸も苦しそうだ。「僕、病院の暮らしはもうたくさんだ」。在宅となったサトシ君を訪問診療する細谷は、時に夕食に付き合うようになり、母親の餃子に舌鼓をうち、「サトシ君、おいしいよ、少したべないか」と進めるも、「みんな食べちゃっていいよ」と返す。そして最期に近い夜に、サトシは母に餃子を注文する。「今までのお母さんの餃子の中で一番おいしかったよ」という言葉を遺す。「短かったですが、13年間、この子の母親でいることができて本当によかったと思います」。泣かずにはおれない。

 小児医療こそ、その国の文化レベルを示すものだと思う。05年に「不思議な書縁」という題で、ミトコンドリア病の娘のことを書いた堀切和雅のことを紹介したが、彼の「小児科を救え」(ユビキタスタジオ)を読み直さなければならない。ギリギリの小児科医が追い詰められてはならない。

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