詩人・石原吉郎

1945年8月ソ連が対日参戦した結果、約60万の日本軍将兵及び一部民間人がソ連・モンゴルに連行され、数年間から長くは11年間も強制労働に就かされた。いわゆるシベリア抑留だが、近年では日本人固有の悲劇ではなく、ドイツ軍捕虜など350万人を加えて400万人を超える人間がラーゲリ(強制収容所)で過酷な強制労働に従事させられ、その起源はスターリン独裁による反革命分子を矯正労働に駆り立てたラーゲリ経済にさかのぼって考察するようになっている。独ソ戦開始時にナチスによるソ連軍捕虜の大量虐殺や強制労働、日本による中国人などの強制連行も当然視野に入れて考えなければならない。
 さて詩人・石原吉郎と聞いて、シベリア抑留を想起される人は相当なレベルである。書棚にあった岩波ジュニア新書「シベリア抑留とは何だったのか」を手にしたのだが、著者である信濃毎日新聞の細谷史代記者ののびやかさもあり、あっという間に読了した。同じくシベリアを描いた画家・香月泰男の絵が随所にあって、シニア向けといっていい。石原は1915年の生まれで、東京外大でドイツ語を学び、41年に招集されてロシア語もできるからと関東軍の特務機関で働いた。これが災いする。45年夏に根こそぎで拘束されてからシベリアに向かうが、少数別組として中央アジア・カザフ共和国アルマ・アタに送られた。酷寒零下30度で支給されるのは毛布1枚。二人一組で1枚を床に敷き、もう1枚で二人はくるまって眠る。雑穀入りの3分がゆ食事も二人分が一つのブリキ飯盒に盛られる。これを公平に分けなければならない。互いの生死がかかっている。どちらが生き残るのかというせめぎ合いだが、憎悪は収容所管理者に直接向けられることはなく、身近にいるものにいつも向けられる。8年にわたる抑留生活がこうして始まったのだが、石原はこうした孤絶の極限生活を心のひだに刻み込んでいく。49年4月の軍事法廷で重労働25年の判決を下る。ラーゲリでの終身刑に等しかった。その後バイカル・アムール鉄道の建設現場に移るのだが、走る留置場と呼ばれる列車ストルイピンカは便所に行けるのは24時間に1回のみ。こらえかねて床に排便したものは、通路に引きずり出されて、息が止まるほど足蹴にされて、素手で汚物の始末をさせられた。生きながら亡霊になってしまった者たちがうごめいている。
 人間は加害者であることにおいて人間となる。石原が記したこの言葉をどう捉えるかである。53年に興安丸で帰国するのだが、その船内で帰国者同士のリンチ事件が起きていた。抑留中に、ソ連の官憲に日本人を密告した者への、密告されたものからの報復だった。
 帰国した石原は伊豆にある親戚に身を寄せるが、その晩に「もしお前がアカならば今後の付き合いはできない」と告げられる。シベリア帰りは当然、仕事にもありつけない。戦争責任を自らの抑留生活で果たしてきた思いは、無残にも打ち砕かれ、血族というものを前提とする一切の形式を避けて生きていきたいと絶縁状を親族に送り、その後故郷に足を踏み入れることはなかった。帰国してからもラーゲリは続いていた。
 詩が注目されたのは54年の現代詩手帖10月号で、「夜の招待」は初投稿で特選となった。<饒舌のなかには言葉はない。言葉は忍耐をもっておのれの内側に支えなければならぬ。結局はそのような認識によって、私は沈黙にたどりついた>。その沈黙から紡ぎ出されたのが石原の詩ということになる。石原はフランクルの「夜と霧」を手元に置いて、内なるシベリアを語るが、声高にシベリアを告発しなかった。石原の友人で同じエスぺランチストの鹿野は、そんなラーゲリにあっても一番条件の悪い持ち場を選び、整列の時は最も殴られやすい外側についた。告発する資格は自分にはないと思い込んでいた。
 結婚相手だが、シベリアで夫を亡くした未亡人で、公団住宅に居をかまえ、時にアルコール依存症にかかりながら、自らを持ちこたえていた。77年11月に酒に酔って入浴し、心不全で帰らぬ人となった。62歳であった。
 できれば、スターリン独裁下、収容所群島の実像と銘打った「シベリア抑留」(中公文庫・富田武著)も手に取ってほしい。

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