「朝鮮引揚げと日本人」

昭和20年に全羅南道光州で生まれて、生後45日で引揚げて来た。親戚親族が集まるといつもその苦労話で何度も聞かされてきたが、世代交代が進むにつれて、最近はほとんど聞かなくなった。敗戦後、中国大陸や朝鮮などから、引揚げてきた人数は650万人に及ぶ。その半分は軍人で、残りが民間人であるが、当時の人口の1割に相当する。そのうち満州を含む中国からは100万人、朝鮮からはおよそ70万人が引揚げている。敗戦の混乱窮乏に加えて、激増する引揚者を抱え、食料をどうする、住宅はどうか、政府は頭を抱えるしかなかっただろう。小学校に入学するまで住んでいた新湊・庄川べりの引揚者住宅は政府が全国に急遽用意したもので、町中の井戸が共同炊事場でごった返していた。託児所なども設置され、そこで遊戯や紙芝居に興じていたことも記憶に残っている。
 この引揚げ体験を人生の中で整理しておく必要があるのではないか。そう思うようになった。古稀を過ぎて時間との勝負でもあるが、伝えられるものは伝えていく義務でもある。視点は植民者として彼の地で暮らした加害者の側面と、すべてを失って引揚げ、本土でも難民受け入れに似た差別という被害者の側面があるが、それをどう超えるのかである。
 朝鮮の人から見て引揚げがどんな風に映っていたのか。「朝鮮引揚げと日本人―加害と被害の記憶を超えて」(明石書店)はそんな1冊である。著者の李淵植は70年ソウル生まれ、国費奨学生として東京学芸大で学んだ。同大の君島和彦教授に師事して、新聞縮刷版等から引揚げ記録などを集め、まとめ上げている。
 まず最も無責任なエピソードである。8月15日釜山交通局長に届いた命令は内地に引揚げる船を大至急用意しろというもの。用意した船に何と朝鮮総督府の総督夫人一行が山のような荷物を積み込み、17日に出港した。しかし結果はどうか。朝鮮で集めた貴重品類をあれもこれも持ち帰りたいと無理やり積み込んだために過載で耐えられず、多くを海中に投げ捨て、また天候の不順もあり、そのまま釜山に舞い戻った。これに限らない。関東軍はソ連参戦を知るや、高位官僚や軍属の関係者をいち早く南に避難させた。企業でも工場長と課長以上の幹部だけに密航船が手配された。非常時局に臨んで私利私欲と個人の保身だけを走る社会指導層の厚顔無恥な行動は、天皇の民草としての虚構の共同体をバラバラに分断し、朝鮮の人々からは蔑視の対象となった。
 もうひとつ、驚く事象がある。帰還を急ぐ人とは対照的に残留しようと考える人たちであった。45年9月12日在留日本人のために朝鮮語講習会が開かれ、受講者であふれかえったという。日本人は朝鮮に居留しながら朝鮮語の存在すらも忘れて暮らしていけた。併合以来の徹底した弾圧分断策は朝鮮人が見えないくらいに内地化していて居心地がよかったのである。このままの延長でアメリカ進駐軍に取り入って、引き続き暮らせるように朝鮮語にも習熟しておこうという思惑である。これも米軍から日本人の朝鮮残留は禁止するという通達で終ったのだが、忘れてならない衝撃的なことがある。敗戦後、朝鮮人からのリンチめいた襲撃は日本人の憲兵や警察に対して行われたが、その被害は日本人よりも朝鮮人がはるかに多かった。なぜか。総督府の民衆支配は同じ朝鮮人を行政組織の末端に使って、物資の供出から海外軍需工場への強制連行にいたるまで、先頭に立っての悪役を受け持たされたのである。群衆の視線はそれを指示し管理強要した日本人よりも、日本人の手先となって担わされた同じ朝鮮人に向けられたのである。
 著者が留学していた君島研究室での日課は、日本の植民地支配を自虐的だと非難する罵詈雑言に近いFAXを始末することだった。また著者の母国でも、親日的に過ぎるのではないかという手厳しい批判も繰り出されている。両国の歴史認識では和解にはまだまだ道遠しといわなければならないが、引揚げ体験を持つものとして、声を挙げ続けていかねばならない。
 さて、森友学園の一連の報道を見ていると、総督府と首相官邸がダブって見えてくる。70年前に釜山からいち早く帰還しようとした総督夫人は教育勅語を絶賛する名誉校長に似ているな、とも。

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