私の祖国は世界

「私は、旅のしかたも分らないまま、『人生の同行者』小田実に連れられて多くの見知らぬ土地を旅してきました。その旅には、さまざまな異国の珍しい文物とともに、思いがけない人々との出会いがありました。小田は『一期一会』という言葉を好みました。人生の出会いを大切にしたいという気持ちをいつも持っていたからです。そして今のこの一瞬一瞬はもう二度と帰ることがないのだという哀惜の思いが、常に誠心誠意、生きるという覚悟となり、自分自身を勇気づけていたように思います」
 亡くなった小田実の連れ合い玄順惠(ヒョン・スンヒェ)の会葬者へのあいさつである。彼女の著書「私の祖国は世界です」(岩波書店)は、その同行体験を語っている。彼女は53年生まれの在日二世、7人姉妹の末っ子で、神戸で育った。両親は共に済州島出身だ。植民地時代に、日本人入植者に追い出されるように同島の人口20万人のうち4万人が日本に渡った。
 この二人が知り合うきっかけは、韓国の詩人・金芝河(キム・ジハ)の拘束事件。その烈しい反戦詩「五賊」で死刑判決を受けたのを、国際的な運動で救命釈放させようと先頭に立ったのが小田だった。70年前後のことで、小田40歳、順惠20歳に届くかどうかの年頃である。神戸のギリシャ料理店によく通って、彼女から9人家族で女が8人という家庭内の出来事を面白そうに聞いていたという。結婚は82年で、最初は両親からも歓迎されるものではなく、周囲からも決して温かいといえない視線にさらされた。
 驚いたのは、この二人の結婚の立会人が宇都宮徳馬だったこと。後に離党することになるが、自民党のリベラルを代表する政治家である。ミノファーゲン製薬の創業者だったこともあり、「宇都宮軍縮研究室」を拠点に保守党の枠を超えた積極的な言論出版活動を行っていた。何よりも徳馬の父・太郎は陸軍大将で、朝鮮軍司令官を務めていたこと。「三・一独立運動」が起きた時がその任で、武断統治に反対だったとはいえ、弾圧策の責任者であった。最近、宇都宮太郎の15年分の日記が見つかり出版されているので、その苦衷が読めるかもしれない。徳馬の自民党離党のきっかけとなったのが金大中事件の処理であったこともあり、小田との親交も分かるような気もする。
 数多くの海外滞在だが、まず中国から始まった。小田が毛沢東についての書き下ろしをまとめるためで、姉が住む北朝鮮をはじめ、中国の各地を歩きまわっている。水墨画家でもある彼女が、装丁を担当し、旅行中のスケッチを挿画としている。その後、ベルリン、ニューヨーク、イタリアでも暮すのだが、この中国滞在が最初にあったのがよかったという。韓国がはっきりと見えてきたのだ。「血と血で結ばれた兄弟」と中国人はいう。人民解放軍に5万人に及ぶ朝鮮族の部隊があり、その果敢さで中国革命に大きく寄与したこと、朝鮮戦争では、米国に対峙して大軍を送り込み、劣勢を立て直したことを指している。しかし、いつも中国が兄貴分だとする態度には複雑な思いがするといった具合だ。
 そして、92年に初めて母国・韓国の土を踏んだ時の感慨だ。「日本はアメリカから民主主義の果実をもらったが、韓国はもらわなかった。韓国は自らの努力で民主主義を獲得しなければならなかった」。韓国の行く末に、日本のそれよりも希望が持てる感触を得ているのだ。
 彼女は「私は何者か」という問いに、「人生の痕跡を抱きしめながら自由でいる個人、つまり世界人である」という答えを見出した。コスモポリタンで生き抜く決意である。
 さて、人生の同行者を持たない男は、孤独を抱きしめながら、不自由をかこちつつ、タコツボで演歌を歌っているしかないのであろうか。

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