「生き急ぐ」内村剛介

無印良品で求めた湯たんぽを愛用している。亡妻が愛用していた半世紀前の電気アンカを使っていたが、古さゆえに発火でもしたらと、遂に捨てることにした。呑みに出かける時は、蒲団に湯たんぽを忍ばせていく。誰も待ってはいない、寒く暗い自宅だが、このお陰で帰るのが苦にならない。足を滑り込ませた時の快感は格別である。でも、ある後ろめたさが脳裏をかすめる。話はシベリアに飛ぶ。酷寒の地シベリアに抑留された人々に思いを馳せると、この湯たんぽは、とんでもない裏切りのようにも思えてくるのだ。そんな大げさな、と思われるかもしれないが、この申し訳なさこそ、わが身上である。
 新書だけが並ぶ書棚の最初のところにそれがある。「生き急ぐ スターリン獄の日本人」。三省堂新書で、定価が250円、昭和42年の初版だ。大学4年の時に手にしている。著者は内村剛介。敗戦直後、平壌で不当に逮捕され、その抑留生活は11年間続く。ひとり、スターリンなるものと対峙してきた。満鉄勤務の姉夫婦の養子となって渡満したのは14歳。少年大陸浪人を自称するが、20歳で、満州国立大学・哈爾濱(ハルビン)学院に入学したことが大きな転機となって、人生が回転していく。その学風は旧制高校を超えるリベラルなもので、そこでロシア語を学ぶ。3年生時には、授業がほとんどロシア語でなされた。その語学力は抑留という厳しい体験に鍛えられ、ロシア人の魂にも通底する思想にまで昇華している。
 さて、敗戦直後の平壌だ。関東軍に勤務した内村は女子の軍属を引率して、京城へ向かうが平壌で途中下車する。そこで日本人難民の救助活動と越冬準備に走り回る哈爾濱学院の梶浦先輩に出会う。ソ連軍が進駐してくるけれども、俺一人ではどうにもならん、手伝ってくれと頼まれる。もちろん語学力を頼りにしてのものだ。進駐してきたソ連軍による関東軍の武装解除に通訳として立会い、また帰国しようと殺到してくる日本人の世話にごった返すような日々となる。そこで彼は“ロシア”を見てしまう。進駐してきたソ連赤軍の司令官が、最初に発したこと。それは崇高な革命理念ではなく、玉ねぎは、キャベツは、肉はあるかと問い、ボルシチを早速作れ!というものだった。その兵士達はどうか。いたるところで強姦や略奪行為をほしいままにし始めたのである。日本人、朝鮮人を問わずに獣のように襲いかかった。末端で行使される革命権力のそれは、剥き出しなもので、その本質はスターリンにもつながっている。「コミュニズムという理想に到達するには、人は、その血塗られた地獄の門を通らなければならない」と、革命の幻想を一切持たない知性が生まれたのである。
 逮捕抑留のきっかけは、滑稽といっていい偶然だ。最初は梶浦ともども朝鮮側の嫌疑で拘束を受けるのだが、いったん釈放される。ところが収容所を出た途端、梶浦が発疹チブスに罹っていて、高熱で震え出したのである。とにかく医者に診せなければとなるが、医者のいるところは収容所しかない。何と、そこに梶浦を背負うようにして戻ってしまう。ソ連軍管轄となったそこは甘くはない。哈爾濱学院がスパイ養成所と目され、関東軍に所属していたことを隠していたという理由で、逮捕となった。梶浦はこのことを人生の大痛恨事と嘆き、内村はこれも運命と恨むことなく、受け入れている。むしろ積極的といっていい。ロシアなるものと対決していくことが、自分の人生に与えられた役割と決めてかかっているところがある。ダモイ(帰国)も望んではいない。この地に残って日本人自治区を作るのもいい。11年間の抑留中も何度も独房に入れられているが、毅然としている。妥協することはなかった。それでは反共、右翼かというとそれも当たらない。人間を抑圧するものは絶対に許さないという主義といっていい。帰国後は日商岩井での商社勤務のあと、北大、上智大学でロシア文学を教えた。その間堅実な執筆と、翻訳を行っている。
 その内村剛介も、1月30日、88歳でその生涯を閉じた。恐らくシベリアを語る人間はほとんど消えてしまったことになる。ぽつんと湯たんぽだけが残る侘しさともいえるか。誰がわがシベリアを理解してくれたのか、そんな侘しさである。
 参照・「内村剛介ロングインタビュー」恵雅堂出版。

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