通訳から作家へ

帰国子女の先駆けといっていいだろう。1959年から64年までの5年間、チェコスロバキアのプラハにあったソビエト学校で学んだ。ロシア語の授業で、彼女が9歳から14歳の時。みずみずしい記憶細胞にしみ込んでいったことは間違いない。そこは全世界50カ国から、共産党の幹部候補生、弾圧を逃れた亡命共産主義者達が集って来ていた。ほとんどが「平和と社会主義の諸問題」という雑誌の編集局に在職し、プラハの労働者平均給与の4~6倍の報酬を得、高級アパートが提供され、共産主義運動の一元的な指導、理論構築がなされていた。フルシュチョフのスターリン批判演説をうけて、ハンガリー動乱が起きたのが56年。ソ連崩壊の兆しが見え隠れする時期である。ソビエト学校はその子弟のためのもので、優秀な教師も揃っていた。父は、日本共産党から派遣されていた米原昶(いたる)。夫人も唯物論者であったという。とりわけ父の影響を最も受けながら育ったのが彼女・米原万理である。残念ながら06年5月に、がんで亡くなっている。その奔放な才能を振りまきながら、56歳の生涯を駆け抜けていった。雑誌「ユリイカ」(青土社)が1月号で、彼女の特集を編んだ。
 帰国後、東京外大学ロシア語科に学び、東大大学院の露文学専攻修士課程を終えている。ところが就職先がない。「共産党一家ということもあって、就職がみつからないの」と訪ねたのが、通訳をしていた徳永晴美。きれいに響き、ネイティブ並みのロシア語を身につけているのだが、やはりコツがいる。如何に云ったかではなく、何を云ったか、というわけだが、最初の同時通訳では、ヘッドホンを脱ぎ捨てて「だめ、私はやっぱり才能がない」と叫んでいる。それが「逐語訳型ではなくて、無駄を省いた本質を伝える意訳タイプ」というお墨付きを得る第一人者となって、ゴルバチョフ出現あたりから膨大な仕事が舞い込み、鎌倉に庭付きの邸宅を手に入れるまでになった。本人はそれを「ペレストロイカ御殿」と呼んでいる。
 もともと通訳で収まる才能、性格ではなかった。彼女の存在感と個性が、時に発言者を超えてしまうのである。こんなこともあった。「私にもお客さんと同じものを出してください」と通訳用の簡単なサンドイッチを突き返した。発言者が非論理的なことをいうと、「そんな発言、きちんと翻訳できるわけがないじゃない」とたしなめる事も。
 熱心な読者ではないが、「嘘つきアーニヤの真っ赤な真実」(角川書店)がある。ソビエト学校時代の友人を探し、訪ね歩く話だ。子供であったギリシャ人、ルーマニア人、ユーゴスラビア人が、プラハの春、ビロード革命、ユーゴ紛争とそれぞれ歴史の激動に翻弄される3人を、活写している。作家の才能が、女性らしい観察眼で躍動している。戯作でない水準を保ちながらの読者サービスといった方がいいかもしれない。
 シモネッタと自称するが、男への飽き足らなさはひょっとすると、父・昶の影響かもしれない。オシッコ飛ばし競争で、チンポコを振り回す男を見た時の驚き。人体の器官で、ある条件下で6倍に膨張するものは、との質問に、下を向き顔を真っ赤にして答えられないという少女(正解は瞳孔)。「終生ヒトのオスは飼わず」と居直ってしまった。思想でもそうである。万理の亡骸に取りすがって号泣した起訴休職中の外務官僚・佐藤優だが、父母と同じ唯物論を信じ、鋳型にはまった共産党の思考を遂に抜け出すことはなかったといっている。組織と個人という永遠の課題に、父の存在に金縛りになって、自由な知性が解き放れなかったという批判である。
 08年秋、山形遅筆堂ギャラリーで「通訳から作家へ 米原万理展」が開かれた。妹ユリは、井上ひさし夫人である。ひさしの原作「父と暮せば」の露語訳もこなし、そんな関係からの開催でもあった。不思議な人の巡り合せというが、これほどのダイナミックさも彼女にあたわったものなのだろう。

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