携帯を忘れた旅

品川駅に降り立つのは何年ぶりだろう。正面にあるホテルパシフイック東京は、新婚旅行最終日に宿泊した思い出深いもので、当時出来たばかりの新名所といわれていた。それ以来とすれば、37年振りとなる。しばし感傷かと思われるも、瞬時に現実に引き戻された。眼の前が、京品ホテルである。廃業を通告され、従業員が解雇撤回を求め、自主営業を続けているあのホテルだ。正面玄関に全国から寄せられた赤旗が張られ、“檄”の大きな文字から放射線状に組合員の思いがマジックで手書きされている。懐かしいと、手でなぞってみる。そしてすぐに反省、自戒だ。懐かしいだけのセンチメンタル左翼気取りが、どんなに有害となっているか、と。重い足取りで品川プリンスホテルを目指す。どうしてパシフィックではないのか、だって。シングルで1万円近い差なのである。割り切ることにしたのだ、許されよ、亡妻。
 14日から1泊での取材旅行を楽しんだ。例の神通会報の取材である。いつまでも出しゃばるな、と肝に銘じているが、若手取材者が見つからなかった。3人のアポを取り付けて、やはりわくわくしてくる。それがいけなかったのであろう。スタートからアクシデントである。7時05分発の飛行機に遅れそうになり、慌てて車を降り、走り出したのだが、携帯電話を車の中に忘れたのに気がついた。次の便にすれば正規料金だから2万円強となるはず。携帯無しの旅か、2万円で次の便にするか、と一瞬悩んだ末に、携帯を捨てる選択をする。係員に付き添われて、飛行機に滑り込んだのだが、冷や汗を浮かべつつ、襲ってくるリスクに、2万円の負担でもその方がよかったかと思い返したりする。
 最初のリスクである。午後3時、渋谷・東急ホテルのロビーで、と約束を取り付けたのが中野香織さん。ファッションを切り口にするコラムニスト。当然のように向かったのが、ハチ公前にある渋谷エクセルホテル東急。しばらくして、ふと不安がよぎる。普通エクセルを東急ホテルとはいわないのではないか。すぐにホテルの係員にいまひとつ東急ホテルはあるかと尋ねると、セルリアンタワーだといい、シャトルバスがあるから利用すると5分で着くという。10分前である。何はともあれ、乗り場へ急ぐ。手帳には念のために彼女の携帯番号がメモしてある。公衆電話で連絡する手もあるが、遅れることはあるまいとシャトルバスに乗る。走り込んで、エスカレーターを上って、ピッタリ3時。ロビーを見渡すと、彼女が立ち上がってくれてホッとする。「エレガンスとダンディズムの源流」というタイトルでのエッセイを書いてもらう事になった。神通会員の方はぜひ読んでもらいたい。
 次なるリスクだ。午後5時渋谷界隈で飲もうと約束した大学時代の友人である。待ち合わせ場所は携帯でするから、としていた。ところが手帳に彼の番号はあるのだが、古いもので掛からない。友人が私の携帯に何度も電話していると思うと、気が気ではない。自宅の番号を電話帳で調べて掛けてみるが、これも留守。人間は身勝手である。あいつの想像力では、携帯を家に忘れているということを期待するのは無理か、とも。普通のセンスであれば、ハチ公周辺となるだろうと、30分その周辺をウロウロするが、徒労に終わってしまった。何とも気持ちの落ち着かない夜となったのはいうまでもない。
 ホテルにチェックインする時に、品川駅の駅中コンビニ「成城石井」に目をつけていた。その品揃えに驚嘆していたのだ。小さなワインとパン、チーズ、サラダを買い込んで、部屋中のひとり夕食とした。
 翌朝9時の予約が、三菱飛行機の戸田信雄社長。品川グランドセントラルタワー三菱重工ビル内にあるのだが、YS11以来40年ぶりで、国産ジェット機を生産する状況を聞いた。面白い取材であった。
 というわけで、もう携帯なしでは仕事も私生活も成り立たないことを確認する旅となった。あなたなら、2万円を無駄にしても携帯を選ぶのであろうか。

© 2020 ゆずりは通信