浜口陽三・南桂子

「富山から来ました」といって、閉館時間を延長してもらった。ミュゼ浜口陽三は、ヤマサ醤油の個人美術館である。人形町にある今半本店ですき焼を食べたいという愚息たちと待ち合わせたロイヤルパークホテル。ホテルの案内係に、今半の場所を確かめると、界隈の案内図を出してくれた。そこに美術館が、しかもホテルの真ん前のビルの中に表示されている。三男がフットサルの試合が長引き、遅れるとの報がはいり、自称アーティストの次男に行くかと問うと、すぐに応じてくれた。こいつの好奇心がうれしく、足元が弾んだ。ところがクローズの案内板が揺れていた。時計をみると午後5時を過ぎている。しかし明かりがついているし、人の気配もする。ドアを開けて、冒頭のせりふになった。
 道すがら、簡単に浜口夫人である南桂子について、説明をしてやった。高岡の名家に生まれたが、幼くして両親を失い、意にそまない結婚をし、子供もなしていたが、浜口と駆け落ち同様に渡仏した。後にサンフランシスコに移住するが、70歳を超えて断ち難い望郷の思いが、彼女を苛んだ。二度と踏めないと心に決めた高岡への押さえがたい思いである。どうした経緯なのか、子細はわからないが、80歳を超えた90年に、高岡市美術館で個展が開かれた。ユニセフのカレンダーに採用されるなど世界的な評価を得た版画家であれば、もっと早くにもということもあるが、彼女の気持ちからすれば、それ程の年月を必要としたのかもしれない。などなど、誰から聞いたのか不確かなものである。
 無理矢理に入ったミュゼだが、入口にはフラッグがはためき、何となくニューヨークと見まがう趣で、建築設計は鈴木エドワードである。入場料600円を支払い、企画展「浜口陽三・南桂子二人展―ひびきあう詩―」をみる幸運に出会えた。旅の良さである。
 記念に浜口作品「西瓜」の印刷された小便箋を求めた。カラーメゾチント技法でしか表現できない鮮やかな赤が気に入ったからだ。次男は係員にエッチング、メゾチント技法について質問していた。閉館5時を30分も延長させながら、実に気持ちのいい対応でうれしくなった。なお、浜口はヤマサ醤油の創業家10代目の三男である。ミュゼにある南の紹介では、佐多稲子に知遇を得、壷井栄に師事し、童話も作っているとあるが、触れてはならないものを隠しこんださりげないもので、それを知ったからといって、作品鑑賞には影響ないだろうという配慮が見て取れた。
 さて気持ちよく、わが家の三男も合流し、甘酒横丁を通り、今半本店に繰り込んだ。しかし老舗というのは、一見の客を見下げたような応対をするのが難である。その危惧があたった。部屋に通されて出てきた70歳を超えた仲居さん風の、メニューの説明がぞんざいに聞こえる。吝嗇な三男は並コースを選択したので、それに同調。アーティスト次男はコースではなく、一点豪華の極上肉を選択した。もちろんコースの3割増しの料金だが、この機会を逃してなるものかの気概である。その仲居はしきりに、それに付随する注文を強要するが、それだけでいいといい張る。にやりと笑いつつ、そのやり取りを見ていたが、気持ちのいいものではなかった。極上肉を一口味わわしてもらったが、並とはさすがに違っていた。
 今回の東京行きは、北千住にある在宅医療福祉で先進的な取り組みを行っている柳原ホームケア診療所と3つの訪問看護ステーションの見学と情報収集である。バックナンバー319「自宅で死ぬということ」を参照願いたい。下町のアパートや、古びたマンションを活用した働き場所で、ごちゃごちゃに混在している。もちろん自転車での活動で、あらゆるところに智恵と工夫が見られる、現場で判断して、現場で結論を見出しているのがよくわかった。理念先行ではない。理念が応用問題を解いた結果がこうなのだという見本でもあった。人口密集地のプラスマイナス、散居村という地の利、不利益を見極めていかねばならない。ナラティブホーム実現への正念場がやってきている。

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