「二つのウリナラ」

 「挺身隊に取られていたことが親戚や近所にわかったら、子どもは離婚し、職を失い、引っ越しが必要です」。韓国に住む教え子からの、絶縁の手紙である。教師は、己の無知から取り返しのつかないことをしたのだ、と自ら苛むしかなかった。この衝撃をどれほど共有できるか、日本人の矜持がかかっている。

 「二つのウリナラ」(解放出版社 ウリナラ=わが祖国)は、植民地朝鮮で教師をしていた池田正枝の痛哭な思いが綴られている。1922年全羅北道古阜面に生まれ、3歳の時に実母が病没し、義母との葛藤に苦しみながら、京城公立第一高等女学校に進み、代用教員で働き始める。朝鮮人が日本人になるのは幸せだと信じて疑わず、朝鮮の子供たちに囲まれ,創氏改名した日本名で呼んでいた。戦線が逼迫し、国家総動員体制の中で女子の勤労動員が朝鮮にも及んできていた。京城芳山国民学校で教えていた1943年のある日、校長はさりげなく「絶対指名してはなりません。あくまで志願するように持っていってください」と念押し、女子勤労挺身隊のことを切り出した。富山の不二越という工場で、応募者にはこんな特権があると付け加えた。コメどころ富山ではおなか一杯ご飯が食べられる、女学校の勉強ができる、大きな病院が二つもある、映画館があり毎週映画が見られる。その通りを池田は生徒に伝えた。全員が「いく、いく」と手を挙げるが、帰宅すると親に反対されたため、選抜されたのは5人にとどまった。池田はその時に、動員人数が足りないと、学校の名誉に傷つくのではないかとも思っていた。その後45年2月に再度の要請があり、高等科のひとりが希望し、送り出した。女子勤労挺身隊に限ると、不二越には1090人が強制動員された。

 さて、敗戦と同時に教師は解職されたが、同時に解職手当が支給された。何と一律2000円で、当時の月給90円の22倍で、何の疑問もなく受け取った。敗戦から5日後に、最初の5人が帰ってきた。富山のことを尋ねると「そのことは何もしゃべりたくない」と全員が口を閉ざす。一切わからないまま、いまひとり李さんの帰国が確認できないのが気になったが、池田は逃げていた。芳山国民学校の前を通ると、子どもたちが朝鮮語で本を読んでいる声が聞こえ、やっと本当のことが始まるのだと感じた。

 池田は帰国後、住み込み看護婦見習、建設現場の飯炊きなどで糊口をしのぐが、48年に教師不足もあり、大阪・八尾市立龍華小学校で復職する。同じ頃起きた朝鮮人民族学校の閉鎖、弾圧の阪神教育闘争、部落解放同盟をめぐる矢田教育差別事件などに積極的にかかわっていく。そして、ひょんなことから韓国での再会に結びついていく。90年秋の大阪・中之島の反戦集会で新聞取材を受ける。「戦争は絶対に許されない。(不二越で働かされた)私の教え子はいまも生死がわからないんです」との記事。これを見た富山の澤田純三・庄川町議がすぐに連絡をくれ、一緒に不二越本社を訪ねた。李さんの手掛かりが欲しいと迫る池田に、「その時代の人は皆辞めてしまい要求には応えられない」と不二越は一点張り。同年の6月、富山テレビから「李さんを探しに行こう」とのオファーがあり、澤田も同行して、ソウルに向かった。学籍簿などを頼りにようやく李さんを探り当てた。そして冒頭の言葉となる。「46年間、夫にも子どもにも知られないように過ごしてきました」。韓国では「挺身隊」即「慰安婦」と思われている。李さんが何十年、胸を痛め続けていたかと思うとやりきれない。

 06年、池田は奈良県生駒市のアパートで、85歳の人生を閉じているが、「21世紀の子どもたちへ」を副題にして思いを伝えたいと願った。

 

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