1枚の賀状から

人間が同じ愚を繰り返すのは、生まれ変わるということがないからだ。そんな慨嘆を添え書きにした賀状が届いた。この男は塩野七生の「ローマ人の物語」を読んでから、誰彼構わずに、この本を読んでから物事にあたれ、すべての答はこの本にある、と説いて回っている。塩野古代ローマ教の信者となり、布教を通り越し折伏という感じだ。最近は、胡散臭さもあり、敬して遠ざかっている。本人は旅行資金も底がついたようで欧州旅行は断念しているが、その分拍車を掛けて、関連図書で楽しんでいる。図書館愛用派だ。多分、昨年末に刊行された続刊「ローマ亡き後の地中海世界」上巻に夢中になっているはず。「ローマ人の物語」15巻完結から2年、塩野は休むといっていたのに秘かにその後を書いていたのだ。新潮社のPR誌「波」1月号は、その間のことを書いている。
 日本人にどうにも理解できないのが、キリスト教世界とイスラム世界の確執である。この大不況は日米同盟だけでは乗り切れない、別の意味の多国間、グローバリズム感覚が不可欠といわれている。そのためには、この確執を何とか視野に収めなければならない。しかし、塩野は日本人とアメリカ人には無理だという。十字軍以来、どれだけの戦いや、対立を繰り返してきたか。頭ではわかるが、付いていけない。その点、ヨーロッパは、イスラムとの価値観の違いを目の当たりにする。食べ物が違って、肌の色が違って、体臭も違うということを体で感じとっている。また、こちらは豚肉料理を美味しく食べているのに、豚を食べるなんてとんでもないといった人が間近にいる。「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)が壊れてイスラムの海賊に千年の間苦しめられてきた歴史も持っている。現在のソマリア海賊の比ではない。例えば、トルコのEU加盟が進まないのもそこに行き着く。パクス・アメリカーナを超えて、日本が生き抜いていくためには、本音と建前を見抜き、したたかな交渉能力を身につけていかなければならない。ヨーロッパの「自由と平等」というのはイスラム世界を含めていない、そんな極端な本音を理解しておけとの警告でもある。
 警世家・塩野が更に心配というのは、イスラム世界のことだが、彼らは自分自身に疑いをもたない。つまり自分の行動について反省しないというのは、もし不都合が起こった場合に、他人に責任を転嫁してしまうということ。対談相手の池内恵東京大学准教授も、ある種の根本的な倫理が共有されていない、と懸念に同調している。
 はてさて、グローバルの懸念もさることながら、身近なローカルにも、どうしても超えられない、見えそうで見えない壁が立ちはだかる。感受性の強い若者には、その壁は特に拒絶しているようにも見える。季刊「ひとりから」第40号で、余りの息苦しさに日本を飛び出し、ポルトガルに移住した川島めぐみが声をふりしぼる。「受験戦争は、子供達を日本の社会が望む従順な市民に作り変えるための虚勢装置」。就職活動では、「高収入と引き換えに要求されているのは私の能力だけではない。会社は、忠誠と服従で私の心まで鷲掴みにしなければ安心しなかった」。そして闘争宣言だ。「自分の意志に従うか、社会の意志に従うか。日本社会が異なる者を排除し続ける限り、私は日本社会と対峙し続けるだろう」。
 内憂外患の極みのようだが、救世主はいる。オバマではない。また例の繰り言というなかれ、わが世代である。隣のおじさん、おばさんこそ救世主足りうるのだ。ちょっと声を掛け、耳を傾けてやる。塩野教の信者おじさんも、したり顔で説教するよりも、このちょっとを心がけよ。このちょっとこそ、救いになるのだ。年金は社会からの給料だと思え、社会から雇用されていると思えば、やれないことはない。勝ち逃げ世代の汚名を晴らそう。そして、肩を組んで今こそ歌うべし。
「起て肥たるものよ、いまぞ日は近し。覚めよ、わが団塊、暁は来ぬ。圧制の壁破りて、固きわが腕、いまぞ高く掲げん、わが団塊の旗。いざ闘わんいざ、奮い立ていざ、ああインタナショナル、われらがもの」。

© 2024 ゆずりは通信