「さわり」

1967年11月9日、ニューヨークはセントラルパークに隣接するリンカーンセンター。そのエイヴリー・フイッシャー・ホールを埋め尽くした3000人の聴衆は終わった後一瞬静まり返ったが、すぐに割れんばかりの拍手と歓声をおくり続けた。わずか20分の演奏だが、主役は4人の日本人だ。武満徹(37歳)は自分が作曲した「ノヴェンバー・ステップス」を座席で見守っていた。指揮台には小澤征爾(32歳)が立ち、ステージ中央に新進気鋭の尺八奏者・横山勝也(32歳)と、天才琵琶奏者・鶴田錦史(56歳)が並んで、余韻を噛みしめていた。
 それはニュ―ヨークフィル125周年を記念した企画で、世界の著名な現代音楽作曲家18人が選ばれ、新作を発表するものだった。武満徹がそのひとりに選ばれ、指揮者のレナード・バーンスタインが小澤の話を聞き、尺八と琵琶をいれてほしいと注文したものだった。その日の夜、4人はバーンスタインの自宅に招かれ、返礼に鶴田は琵琶で「本能寺」を、横山は尺八で「手向(たむけ)」を演奏したが、みんな涙を流したという。
 「さわり」(小学館)は、「鶴田錦史伝―大正、昭和、平成を駆け抜けた男装の天才琵琶師の生涯」と題して、数奇の人生を追っている。著者・佐宮圭の綿密な取材が筆のダイナミズムとなって、心地いい。第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞作品でもある。
 錦史は明治44年の生まれ、亡父と同年であるというのも手にした動機だが、琵琶という楽器の盛衰と重なった生涯でもある。大正の初めから琵琶人気が高まり始め、美男美声の永田錦心の登場で、琵琶ブームが最高点に達した。錦史は7歳の時に、13歳上の兄・諌美(いさみ)によって才能を見出され、鈴を鳴らすような声と見事な節回しで人気を集め、10歳にして弟子を持ち、無声映画全盛の映画館から引っ張りだことなった。練習嫌いであったが、人前では天性の才能がほとばしった。
 転機は意外と早く訪れる。ライバルの出現だ。同年生まれの水藤錦穣で、類稀な美声と美貌で、鶴田は二番手に付けるしかなかった。それもあり、弟子である二枚目の男と結婚した。子供も授かり、これからという時にその男は浮気をしたのだ。別れようとした時に次の子の妊娠がわかり、結局2子をもうけて離婚するのだが、この子供も捨て去ってしまう。それほどの絶望でもあった。女を捨てて、男として生きよう、もちろん琵琶も捨てて、とその覚悟のままに生きていく。強い女の典型だが、幸いなことにビジネス感覚も備わっていた。喫茶店、キャバレー、ナイトクラブとやるもの全てが当たった。金に不自由しなくなった頃から、同性愛に行き着く。しかも選りすぐりの美女を選び、同棲するようになる。ニューヨーク行きに同行したのは、男装の錦史に寄り添う事実上の妻・幸子である。
 しかし琵琶を捨てた昭和8年から同30年までは、世間的には全く空白となっている。復活したのは昭和30年、兄の追悼公演であった。紋付袴姿の“強面の壮年男子”となって忽然と現われ、腕は衰えてはいなかった。演出したのは、錦穣の養父である水藤枝水である。
 錦史が武満の名を記憶に留めたのは、小林正樹監督の映画「切腹」。この時の音楽を担当した武満は思い通りの音が得られず、テープでの合成だったが琵琶を使っていた。本格的には映画「怪談・耳無し芳一」だが、錦史が琵琶の作曲と語りをすべて担当した。天才4人の出会いが紡ぎだした、記憶に残したい時代の記録である。
 さて、上原まりが筑前琵琶で語る「平家物語」を富山能楽堂で聞いたのはいつのことだったろうか。また小椋圭の長男・神田宏司が障害を乗り越えて薩摩琵琶作りに打ち込んでいるのも記憶に新しい。絶滅の危機に瀕する琵琶でもある。
 朝日新聞の書評では、女性への抑圧構造を指摘し、その抑圧こそが、彼女の音楽に独自の「さわり」と“感じ”をもたらした、と結ぶ。ライバル水藤錦穣も養父である水藤枝水に10数歳にしてもてあそばれ、子をもうけたが引き裂かれている。

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