炎立つ

「これやこの 一期のいのち炎立ち せよと迫りし吾妹よ吾妹」。吾妹は「わぎも」と読み、わが妻という意。死に臨んで、病んだ妻が夫に対して、今生の思い出に炎(ほむら)立ちして、貫徹してください、といっている。お願いというより、鬼気をはらんで迫っているといっていい。これでも理解が出来ないというなら、炎立ちとは勃起だ。こんな夫婦もあるのだ。低俗な興味しかない輩は、それからどうしたのだ、と急ぐだろうが、そうはいかない。回り道でも、ちょっと付き合ってもらいたい。
 なにしろ、夫の名は、歌人である吉野秀雄である。山口瞳が「小説 吉野秀雄先生」を書いている。生涯、師と仰ぎ、19歳の時の「鎌倉アカデミ-」での出会いから、死に至るまでを書き記している。師の鎮魂譜だ。「恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君、いいですか。恋をしなさい。交合(まぐわい)をしなさい。」「若くとも、貧しくとも、恋ぐらいすべし」と盛んに天真爛漫な性を吹き込まれた。容貌魁偉、手も大きく、巨体で誰が見ても偉丈夫であるが、それでいて心根の優しい、柔らかな人であった。その前にいると春の日を浴びているかのようであった、と回想している。
 吉野秀雄は明治35年生まれ、慶応大学在学中に結核に冒され中退、歌道に精進した。会津八一に師事し、世に広く知られるようになったのは昭和22年。雑誌「創元」に「短歌百余章」が発表された。「創元」の実質的編集長は小林秀雄で、同じ鎌倉に住んでいた。吉野の原稿を読むなり、当時八幡神社の脇の山上に住んでいたが、凄い勢いで山を降り、小町の吉野の家に駆け込んで、絶賛した。掲歌もその中にある。
 妻ハツを亡くしたのは昭和19年で、享年42歳。子供4人が遺された。「をさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまわ)の母の脛さすりつつ」。貧乏暮らしに自分の病い、途方にくれて手が付かない。しかし、世は捨てたものではない。窮した吉野に女神が現れた。八木登美子、クリスチャンでもある。詩人八木重吉に先立たれ、子供二人も幼くして亡くし、天涯孤独の身となっていたが、偶然にも吉野家の家事の世話をすることになった。八木は文字通り夭折の詩人で、詩集「貧しき信徒」は金子みすゞを思わせる。「くものある日 くもはかなしい くものない日 そらはさびしい」。もちろん登美子の最も大切なものとして、八木の詩集3冊が鞄の中に納められている。
 純朴な秀雄は、井戸端で洗濯している登美子を見ていて、突然こみ上げてきた。「もしやわたしの家内になってくれぬだろうか」と恐る恐る求婚する。あっさり「なります」と登美子。「これの世に二人の妻を婚(あ)ひつれどふたりは我に一人なるのみ」。しかし平坦ではない。長男の発狂、次男の家出、長女の登美子拒否、夫に糖尿病、リューマチが加わり、心臓発作も起こすようになる。「今ははや生の死もなし苦しめる物体一個宙に釣り下がる」。昭和42年、秀雄は66歳で生涯を閉じた。
 こんな男が今ひとりいた。亡き林宏。高校同期で、浪人3年、その間に文系から理系に転じ名古屋工業大学へ。そこでも留年し、社会に出るまで都合8年を要した。柔らかな巨体を揺らせながら、野球を愛し、いつも恋を追いかけていた。住友建設に入社後の無理がたたって、ガンを発病、10年前に浜松で没した。
 さて、お待ちかね。男・秀雄はやったのである。「ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす」。妻の命がこれにより絶命するかもしれない。そんな極限での夫婦間最期の秘儀に挑んで、しかも五体を震わしたのだ。文芸評論家の山本健吉は評する。「これほど厳粛な男女交合の歌は他にない。その命の合体の一瞬にいささかの享楽的な要素もなく、なにか根源の生命への欲求、愛憐の情の極地ともいうべきもので、作者の大きな勇気だ」。そういえば河野多恵子の小説に「半所有者」があるが、これは死んだ妻と交合する、いわば屍姦を扱っていたように思う。
 さあ、諸君どうだ。その日のために、鍛えておくべし。
 参照/「炎立つとは~むかし女ありけり~」福本邦雄著 講談社刊。

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