信じられない話だが、厳然とした事実である。「蟻の兵隊」はドキュメンタリー映画。戦争とは何か、というより、恥なき人間が織りなしていく組織とはどんなものか、を教えてくれる。1945年8月15日、わが国はポツダム宣言を受け入れて敗北した。戦闘はそれを機にピタッと終わったわけではない。前線への通報の遅れや、敗北を信じない勢力もあったから、散発的なものはあったろうがこれは違う。
帝国陸軍の一部がその後数年間も、中国内戦で死闘を繰り返していたという。中国山西省にいた北支派遣軍第1軍5万9000人は、この地方にいた国民党軍に降伏した。ところが、そのうちの将兵約2600人が武装を解除されることもなく残留し、軍上層部の命令で中国国民党軍に加わった。そしてほぼ4年間、国民党の正規軍として共産軍と戦い、550人が戦死、700人以上が捕虜として抑留された。兵士たちは、この内戦でも「天皇陛下万歳!」と叫びながら死んでいった。なぜ、こんな馬鹿げたことが起こったのか。何あろう、卑劣な帝国陸軍司令官とそれに連なる者の、自らの保身が引き起こしたのである。
軍司令官の名は澄田中将。戦犯逃れを画策する澄田と、共産軍攻勢に恐れをなした国民党司令官・閻錫山(えんしゃくざん)とが密約し、47年日本人部隊が編成された。残留部隊の総隊長が書いた命令書には、「戦争を続行し、皇国を復興する」とある。世界の戦争史上、他に例を見ない、いわば「売軍行為」にほかならない。49年2月、共産軍の猛攻撃を受けるが、澄田はその寸前に飛行機で脱出している。多くの将兵を残して、しかも安全に帰国できるお墨付きを手にしての逃亡だ。もちろん戦犯になることも免れた。
一方、多くの将兵は捕虜となり、過酷な強制労働の伴う抑留生活を余儀なくされた。53年から54年にかけて帰国している。しかし待っていたのは、軍籍を抹消されていた衝撃の事実だ。つまり、自分の意思で残留したというのである。さらに加えて「中共帰り」というレッテルを貼られ、公安から付きまとわれ、故郷を追われる者さえいた。こうした彼我の差をうみだすのが、戦争の実態なのだ。澄田の恥じ無き行為はこれで終わらない。
「蟻の兵隊」は、残留兵のひとり、奥村和一にスポットをあてている。82歳、残された時間は少ない。それだからこそ、汚名を晴らしたい、このままでは死んでも死に切れない、そんな凄まじさで迫ってくる。実は、それぞれが生活に終われ、この残留問題は個々人の胸にしまわれていた。ようやく協議会が発足したのは91年。残留が軍の命令であったこと、したがって軍籍は残り、軍人恩給が当然支払われることなどを求めて、請願、陳情を行った。悔しいことにここでまた、澄田側のいい分を盾に、国は「(残留兵は)自らの意志で残り、勝手に戦争を続けた」と跳ね返される。それではと、13人の元残留兵が01年、軍人恩給の支給を求めて東京地裁に提訴したが、一審判決は原告側の敗訴とした。そんな矢先である。
奥村は、池谷薫が監督した長編ドキュメンタリー「延安の娘」を見て、この男に頼むしかないと思った。04年4月のことである。「この運動をどうしても記録映画として残したい」と直立不動の姿勢から45度のお辞儀をして頼み込んだ。そして、池谷は応じた。この人はまだ、戦争の落とし前を付けていいない。この人を通して『戦争とは何か』を伝えれば、これは『これは映画になる』と確信した。奥村は「役者」となって、山西省を訪れ、戦争を再現していく。初年兵教育の仕上げとして、中国人を刺突する回想シーンは脳裏を離れない。
久しぶりの渋谷である。大学4年の愚息がニュージーランドに出かけたので、その下宿を利用しての上京だ。渋谷イメージフォーラムは、宮益坂上の込み入ったビル街の一角にある定員60人のミニシアター。9月18日、何とか探し当てて観ることが出来た。
映画最後の字幕は「2005年9月 最高裁が上告を棄却」。あの澄田は戦犯を免れ、ひょっとして軍人恩給を手に、のうのうと命を全うしたのかもしれない。「あいつらは蟻よ、何千匹踏み殺そうがどうってことはない。私らとは生まれながらに違うのだから」。
「美しい国」の蟻予備軍よ!この事実を忘れてはならない。
蟻の兵隊