サハリンのコリアン

稚内から宗谷海峡を約40キロ隔ててサハリンがある。ぱしふぃっくびいなす号がコルサコフ港に上陸したのが8月21日。この島に上陸する資格があるのかどうか、しかもこんな豪華客船でというためらいである。第一印象は荒涼として、港らしい活況がないことだった。腐食したパイプラインが放置され、廃屋と見られる施設があちこちに散在する。何か哀しみが辺りを覆っているような風景であった。
 船客のほとんどが観光を希望していて、埠頭に並んだバスに乗り込んだ。座席と社内カーテンの色調に違和感を覚えて、6台のバスメーカー名を確認すると、韓国製の現代、起亜とあった。運転手もガイドも、全員が在樺(樺太)2世3世の韓国系の人達である。立ち寄ったショッピングセンターの携帯電話売場は韓国製のサムスンとLGだけで、日本製は見つからなかった。サハリンのコリアン(朝鮮人とも韓国人ともいい難い)がロシアの体制にあって、抗議の日本バリアを張っているようにも感じる。
 そこにはこんな歴史がある。サハリンのコリアンは約3万人、州全体の5%強にあたる。彼らはどのようにして酷寒の地に到来したのか。すべてがそこに起因する。
 日中戦争が泥沼化する37年前後のこと。出稼ぎという自発的移動も少しはあっただろうが、労働力不足が深刻化する中でほとんどが強制連行であった。当初は「募集」であったが、「官斡旋」となり、戦争末期には「徴用」となり暴力的に連行された。そこに過酷な強制労働があったことは間違いない。数々の悲劇も生まれている。そして、45年日本の敗戦である。ソ連の不当な戦闘継続で、8月20日真岡郵便局の9人の乙女が青酸カリで自決する悲劇もあるが、コリアンの誰もが、これで故郷に帰れると思った。
 ところが引揚げは日本人だけが対象とされ、コリアンは除外されることになってしまう。大きな理由は、在樺コリアンの多くが朝鮮半島南部の出身者であったことだ。南北に分断統治された、南の故郷・大韓民国は反共を国是としてソ連と国交を持たなかった。というより敵対することとなった。ソ連当局がそんな帰還を認めるわけがなかったのである。
 解決の糸口になったのは、87年日本の国会議員による「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」結成で、ゴルバチョフの新思考外交が極東地域へ浸透する時期と重なった幸運もあって、韓国訪問が解禁されて永住帰国も実現した。何と40年を超えて、異郷に留め置かれた末でのことだった。
 一方で、サハリン・コリアンの世界も一枚岩ではなかった。戦前に強制されて移住した「先住系」、戦後北朝鮮から移住した「北朝鮮系」、そして37年スターリンによって沿海地方から遠く中央アジアに強制的に移住させられ、そこで習得した共産主義的官僚手法で、同民族を指導するようにと送り込まれた「ソ連系」とに別れていることも、問題解決を遅らせた側面でもある。そんな民族の怨念を、65年の日韓基本協定ですべて解決したとするのはやはり釈然としない。
 さて、州都ユジノサハリンスクでは、樺太・クイール解放戦勝記念行事が行われている最中で、「勝利の広場」では当時の戦車T34が飾られていた。すぐに北方4島返還交渉の難しさを痛感した。しかしロシア正教会の前には、アルマイトの食器を手にした物乞いが4人並んでいる。サハリン北部の天然ガス発掘などで、日英資本を手玉にとる巨大ロシア企業ガスプロムの専横は口惜しい限りだが、こうした末端民衆との間で、大きな格差があるのだと見て取れる。
 亡父が昭和4年、5年と相次いでニシン場に出稼ぎに来ている。コルサコフは大泊と呼ばれており、そこから2里のところに竹谷漁場があり、テクテクと歩いたとしているが、とても80年前の面影が残っているはずもなかった。
 小さな歴史の語り継ぎだが、どんな小さな機会を通じても執念で語っていかねばなるまい。

© 2024 ゆずりは通信