生死一如なり

「中村です。中村夕映です。申し訳ない気持ちなのですが、いまだに生きております。お元気ですか」。8月29日、帰宅して夕食に取り掛かる矢先に電話が鳴った。

1996年だから6年前。新潟県立がんセンター6階の病室。同室の4人の患者はそれぞれに肺がんの告知を受けていた。亡妻と夕映さんは余命6ヶ月の宣告を受け、「医療の敗北」という厳しい判決にたじろいでいた。二人は抱き合って泣き、慰め、励ましあった。いわばふたりはがん病棟の戦友であった。「申し訳ないなんていわないでください。女房の分まで生きて、楽しんでください。」

新潟駅で越後線に乗り換え一つ目の駅が白山。そこから歩いて3分のところにがんセンターがある。約6ヶ月の間、富山から週2回のペースで通うことにしていた。その病室の活気のあること。笑い声が絶えず、訪れる家族もみんな顔見知りで、越後訛りに、山形訛りが飛び交う。こんな事件も巻き起こした。トイレの出口からこの病室が丸見えになる角度にある。女性の病室なのにこの無神経さはおかしい。すぐに変えてほしいと申し入れをした。そして院長をギャフンといわせて、実現させている。スナックのママさんであった武佐さん。昼食時にこっそり小さな缶ビールを取り出す。にやっと笑うと更に1本取り出して投げてくれる。「きょうは二人で外泊しなさい」が口癖。わが夫婦のシャイさをおもんばかってくれてのこと。いま思うと、そうしておればよかったと後悔している。なかなかのファイターで北島三郎の大ファン。絶対にがんに勝つと信じ、抗がん剤の大量投与にも果敢に挑戦した。如何せん敗北し、亡妻より先に旅立っていった。夕映さんは隣のベッド。三条の出身で亡妻とは特に気が合った。富山に転院した後も、たびたび分厚い手紙をもらった。同年の8月には我が家を夫婦して訪ねてくれた。4人して小一時間のドライブを楽しみ、ガラス工房で記念の吹きガラス作品を求めた。それから半年後に妻が逝った。それから6年余の歳月、夕映さんにとってあの肺がんは何だったのであろうか。単なる診たて違いでもあるまい。医療に携わるものなら、科学的に説明があってしかるべきである。生命の神秘さとかで誤魔化さないでもらいたい。

医療問題はもっと論議していい。まずいい医師を育てることだろう。前金沢大学付属病院長の河崎一夫氏が「医学生へ。医学を選んだ君に問う」(朝日新聞4/16朝刊・私の視点)で厳しい倫理観を求めていた。研修医制度も根本的に変えなければならない。前世紀の徒弟制度をひきずり、過労死も当たり前というのではおかしい。そして保険制度だ。確かに国民皆保険で等しく医療の恩恵を享受できることになった。しかし一方で医療の進歩改善をこの保険制度が阻んでいる。診療点数に換算される医療では、本質的に患者を救うことが出来ない。思い出しても悔しいことがある。痰がからんで苦しんでいる妻に、無造作に口の中にバキューム管を文字通り突っ込む年配の看護婦。殴りつけてやりたい衝動に駆られた。看護婦の勤務の実態をみると、そうならざるを得ないのかとも思う。倫理を支える制度改革を急がなければなるまい。

さてその中村夕映さんにもまた試練が訪れている。旦那さんがアルツハイマー病にかかったという。動けるうちにと、旦那さんの運転を右左と指示して、この日は富山に辿り着いたという。生かされた命であっても、そうやすやすと平安をもたらさないのが人生なのである。生きることも、死ぬことも同じであるという生死一如がようやくにわかりかけてきた。
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたるものを抜くに時がある」(旧約聖書から)。

諸君 その時が来れば、食を絶ち、静かに満ち足りて「お迎え」を待つことなのだ。なに、性も絶つのかと。腹上死もやはり、その男の「死ぬに時あり」には違いないのかな。

© 2020 ゆずりは通信