「さすらいの舞姫」

韓半島の近現代史の激動に、まるで身を投じるように生まれたバレリーナがいた。日韓併合の翌年1911年生まれの崔承喜(チェ・スンヒ)で、京城(ソウル)の両班の家柄だった。没落貴族のプライドは日本憎しだが、彼女はおおらかな性格もあり、そう影響を受けてはいない。16歳の時に京城公会堂で舞踊家・石井漠のモダンバレエ公演を見て、即座に弟子入りを申し込み、東京に移り住んだ。草刈民代を少しふっくらさせたくらいだろうと勝手に想像しているが、誰もが振り向かずにはおれないほどの女ぶりだった。もちろん日本語読みで、「さいしょうき」と呼ばれている。
 その後、才能が目に見えて花開き、日本でも一世を風靡するバレリーナとなった。文豪・川端康成が「朝鮮舞姫・崔承喜」と題して当時の文芸誌で絶賛するほどである。公演依頼が引きも切らず、映画化もなり、師である石井漠をも超える人気を得た。
 その頃から、歴史の歯車と彼女の歯車が妙に合わさっていく時でもあった。満州事変、日米開戦、敗戦、南北分断、朝鮮戦争、文化大革命などだが、一枚の葉っぱが大きな波に翻弄されていく。そして、彼女の最後だが、劇的な悲劇で幕を閉じている。67年、北朝鮮で忽然と闇に消えてしまい、誰もその消息を知ってはいない。家族共々粛清されたのである。03年に名誉が回復され、「舞踏家同盟中央委員会委員長 人民俳優」と愛国烈士陵に埋葬されている。
 こんな彼女の生涯を「さすらいの舞姫」と題して書いたのが西木正明だ。光文社刊で、900ページに及ぶ大作である。直木賞も受賞しているが、平凡パンチの編集記者がスタートというのがいい。今年古希を迎えているはずだが、韓半島の歴史をどのように散りばめつつ、伝説のバレリーナの奔放さをどう描いているのか、期待して手に取ってみた。
 序章で執筆のきっかけに触れている。平凡パンチで三島由紀夫事件の特集を組むことになり、川端康成に取材する役を担わされた。その時に、三島がイサドラ・ダンカン(米国のバレリーナ)がいいというから、川端は崔承喜の方が断然いいといって論争したことを聞きだしていた。何気なく聞いていたのだが、韓国独立運動をテーマに資料を整理していて、川端の「朝鮮舞姫・崔承喜」に出会い、彼女を書くことが自分に課せられていると覚悟した。筆さばきが平凡パンチ的といったら叱られそうだが、目の前の読者に語りかけているようなところがいい。
 もうしばらく崔承喜のあとを追ってみよう。兄の親友である安承漠と結婚する。早稲田に留学して、反日組織に属しながら作家を志していたが、人気が沸騰して収拾がつかないのを見て、彼女のマネージャー役を引き受ける。その後、アメリカから招待を受けて米国各地で公演し、更にこんなチャンスは二度と来ないと、自費でパリに飛び、南米にも足を伸ばしている。また中国戦線が拡大する中で、満州各地で前線慰問公演もこなしている。反日活動家である夫がそれを押し殺す形で、妻の承喜に仕えるというのが夫婦間心理の大きな綾をなしてくる。45年8月、彼らにとって待ちに待った朝鮮独立<光復>がやってきた。夫の安は、社会主義を標榜する北の平壌に置いて活動を始め、党の主要ポストに就く。そして承喜は金日成の庇護も受け、ソ連での公演など北の宣伝大使的な役割などを果たしている。ところが一方、党の主導権争いは4派(ソ連派、パルチザン派、国内派、延安派)間で熾烈を極めていく。延安派である夫がまず追い込まれ、失脚。党のポストから一介の地下鉄労働者に突き落とされる。次なる承喜は中国・周恩来と人脈を通じていたことが文化大革命の影響で修正主義とされ、断罪される。
 船旅用に持参したのであるが、正解であった。舞姫と重ね合わせて、その時代を辿ることができた。ところで、黒柳徹子は崔承喜の妹弟子にあたるという。

© 2024 ゆずりは通信