邪宗の徒よ 我に集え

京都府亀岡市。一度は訪ねなければならないと自分に課していた地である。12月11日、ひょんな事から実現した。丹波の玄関口でもあるJR亀岡駅。京都から20分。学生たちの声で車内はにぎやかだ。京都のベッドタウン。改札を抜けると、もう眼前にこんもりとした緑が深い堀に囲まれている。かつて明智光秀の居城でもあった亀山城跡だ。光秀が築城したのが1578年頃といわれるから、ざっと400余年の歳月を経ている。明治維新には、城郭が反政府活動の拠点にされるからと廃城の憂き目に。荒れ放題で始末に困った政府は「城売り」と呼ばれる払い下げをする。買ったのは地元の大地主で貴族院議員の田中源太郎。山陰線の敷設に城の石垣や石を利用したという。そして大正8年(1934)大本教の教組であるが天守閣、二の丸付近を買い取り、今に続くのである。出口は亀岡の出身で、この城に深い思い入れがあったのであろう。大本教は出口なおが開祖。「お筆先」と呼ばれ、読み書きのできない「なお」が突然書き出した和紙は約1万巻に達する。拙いひらがなで、世の立替え立て直しを叫ぶ、いわば大本教の経典。これを理論体系化したのが聖師である出口王仁三郎。「なお」の娘をめとっている。大本教ではこの二人が教組、そして亀岡を神教宣布の、綾部を祭祀の聖地としている。昭和10年12月8日 憲兵がこの二つの聖地に土足で駆け上がり、聖師を含む教団幹部を捕縛し、一切の宗教施設をすべて破壊し尽くした。治安維持法と不敬罪違反。大本教第2次弾圧事件と呼ばれる。満州事変を契機に日本が一挙にファッショ化していく。その頃の大本教は数百万の信者を得、機関紙「人類愛善新聞」は百万部を数えた。しかも知識階級に受け入れられていた。これに当局は危機感を覚えたのである。

これを素材として小説「邪宗門」に仕立て上げたのが、作家高橋和巳である。学生時代は彼の著作を待ち焦がれ、憑かれたように貪り読んでいた。鎌倉二階堂にある自宅まで押しかけたり、1971年5月に結腸癌で壮絶に亡くなった時は青山斎場まで馳せ参じた。40歳であった。埴谷雄高から「苦悩教の教組」と呼ばれ、足元にも及ばないのにその苦悩なるものを共有していると錯覚していたおめでたい時期。小説の書き出しが駅のプラットホームに降り立つ千葉潔少年であったこともあり、その頃から亀岡、綾部を訪ねてみたいと思っていたのである。

邪宗門は週刊誌「朝日ジャーナル」に1965年から翌年にかけて連載されたもの。上下巻の単行本には、中国文学を専攻した高橋の難解で細かい活字が埋め尽くされている。よく読めたものだと我ながら思う。高橋は「ひのもと救霊会」の思想、教義、展開にその全思想的重量をかけたのであろうが、その頃の理解力では遠く及ばなかった。そして眼がいったのは淫祠邪教といわれる、この教団のおおらかな女人救済制度。救いを求めてくる未亡人や棄婦、結婚の機会を逸した女工などに、婦人の側に男性選びの優先的選択権を与えた。青年部独身者との法律外の男女関係を許していた、とのくだり。当時の農婦の生涯にわたる悲嘆、つまり朝から晩までの厳しい農作業、一家雑魚寝の中で貧しい性、避妊のないままの出産、間引き、を思う時、そうした救済はあっていいとしたのである。

人間の深部にひそむ不条理になんらかの解決の糸口を見出すには、やはり宗教に行き着くしかないように思える。

時あたかも12月11日、わが理想とする「千石イエス」が亡くなった。その後継たるべく KODAイエス立ち上がるべきとの内なる声が聞こえてくる。邪宗の徒よ、我に集え!いざ救わん。

「スナック おほもと」開店というわけにいくかどうか。

追記 
富山で長く高校の社会科の教師を勤められながら高橋和巳の作品研究をされた脇坂充さんの力作がある。

「孤立の憂愁を甘受す高橋和巳論」
社会評論社 2700円
残念ながら脇坂さんは1999年に亡くなっておられる。

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