五重相伝

12月6日午前3時58分、99歳の母・ゆき枝は旅立った。10月28日からほぼ1ヵ月間、水さえも受け付けず、必要最小限の点滴で辛うじて維持していたが、時に声を出し、目で合図をしてくれて、延命の余恵を享受させてもらっていた。徐々にレベルを落とし、下顎呼吸に入ったと指摘されたのが5日の午前11時頃であった。あと数時間という宣告でもある。このままいけば、施設の働く人たちに迷惑を掛けない時間帯だなと思ってもいた。数日前から着替えなども用意し、傍らで付き添う覚悟で、いよいよという感じであった。
 ところが夕食時のあわただしさがやってきても、母の呼吸は続いている。必要最小限の酸素を取り込み、心臓はしっかりと鼓動を打ち、頚動脈に血液を送り込み、脳にある呼吸中枢を刺激続けているということになる。「健康でおられたのでしょう。五臓六腑に宿る生命力が死を跳ね返しているのです。もうしばらく時間がかかることになりますね」ということで、近くのコンビニに走り、おにぎり3個を口にした。
 午後9時を過ぎた頃、仮眠を取られたらどうですかと勧められたが、母の生命力に屈するようで断った。何かむきになって立ち向かう心理状態である。その時看護師が吸たんをやりたいと了解を求めてきて頼んだのだが、まだ力を入れて抵抗されますね、と驚いた表情であったのもそんな気持ちにさせたのかもしれない。吸たんの効果なのか、呼吸は早いなりに、よどみなくなっているように聞こえた。ふと森鴎外の「高瀬舟」が思い浮かんだ。濡れたタオルで口をふさごうという不埒な考えだが、肉親であるがゆえの歪んだやさしさである。医師にそんなことを話すと、決して不思議ではありません、がんの末期などではどなたでもそんな心境になるようです、と返ってきた。
 6日に日は代わり、呼吸があきらかに変わってきた。ゆっくりあえぐという感じだ。身構えてみたが、死を待ちかねているようで自分でも変だなという思いである。午前3時を過ぎてから、さらにゆっくりとなり、吐くとも吸うともわからない状態となった。止まったかなと思うと動き出す、動き出してはゆっくりと止まる、そんなことを繰り返し、ついにこと切れた。「うらをみせ おもてをみせて 散るもみじ」。良寛の辞世の句だが、急に記憶の底から沸きあがった。こんな情景を謳っているのだと確信したのである。数時間と思っていたのが、いつしか十数時間も要した母の<いのちの粘り>に驚嘆するしかないが、幼しては父に、嫁しては夫に、老いては子にと文字通り三界に家なしを生き抜いた受け身のしたたかさこそ、生命力の源泉であったことは間違いない。
 その後であるが、かねて予定した通りの段取りで、家族親族のささやかな弔いとした。戒名であるが、浄土宗門徒が最も大事している五重相伝を昭和25年に新湊・曼陀羅寺でうけ、その時に「行誉智巧大姉」という誉号戒名を授かっていた。そんな仏縁もあり、曼陀羅寺住職に枕づとめ、納棺、通夜、葬儀、火葬、納骨とお世話になった。省略省略といい張って、何とか2日間でまとめ上げた。体力の限界でもある。
 大正3年新湊生まれの母は、男3人女3人の6人兄妹の長女で、男ふたりは戦死し、残った男も50台で病死している。女3人はそれぞれ90歳前後で、父がやっていた衣料品店を何かと手伝っていた関係もあり、親しさは格別であった。新湊の家の小さな座敷に、残された妹ふたりとその従兄弟筋にあたる5人に集まってもらった。何と懐かしいと手を取り合って話すこと話すこと。育った奈呉町の昭和がそのまま出現したような感じで、通夜、初七日法要と話は尽きることがなかった。オーラルヒストリーとはこのことで、メモもしたので書き上げてみたいと思う。
 はてさて、これで看取りは16年前の妻に続いて、母のも行ったことになる。あっという間に逝くがん死と長々と続く老衰死。次なるは自分だが、思い悩むこともない。そもそもどうこうなるものではないのだ。

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