「熔ける」

誰にも破滅願望がある。のっぴきならない岐路に立つ時、あれかこれかと思い悩み、黒い誘惑者の声にうなずくか、必死にかぶりを振るか。大きな転機となるのだが、奈落の底に吸い込まれそうな恐怖でもあり、早く堕ちてしまって楽になりたいという願望でもある。
 シンガポールの超高級ホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」。高さが200メートルあり、3棟のビルが屋上で連結されていて、その屋上には全長150メートルの巨大なプールがある。単なるリゾートホテルではない、世界の名だたるギャンブラーたちがそこにあるカジノで、さらに大きな欲望をたぎらせて日夜しのぎを削る修羅場も持っているのだ。
 大王製紙社長の井川意高(もとたか)が通されたのはインペリアルスィートルーム。40畳以上のリビングの奥にカジノ用のテーブルが2台置かれている。周囲を気遣うことなく勝負に専念できるのだが、そのためにはフロントマネーと称する見せ金を1億円積まなければならない。往復のビジネスクラス航空運賃も、ホテル費用も向こう持ちである。
 11年の秋口、井川のテーブルの上には20億円のチップが積まれていた。スタッフのひとりが「そろそろおやめになったらどうですか。ここでいったん勝ち逃げし、ワンクッション置いてからもう一度勝負しては」と声を掛けたが、まだ大丈夫だとさえぎって続行した。脳裏を去来するのは成功体験。数百万円の種銭からスタートして、ある時は5億円、別の時には7億円の勝ち逃げに成功したこと、いや12億円、15億円という巨額大勝ちもある。目の前の20億円を種銭にして今までの負け分をすべてチャラにしてやる、そして悠々と日本へ帰るのだ。すがりつくような思いだが、その一方で地獄の釜の蓋が大きく開いてまるで待ち受けているという思いも掠める。
 最後の賭けはまるで悪い夢をみているように終わった。カジノで負けた総額は106億8000万円。48時間の一睡もしない死闘を終えて、井川は煮えたぎる溶鉱炉のごとき奈落で熔け込んでいた。
 久しぶりの新宿・紀伊國屋で手にしたのが「熔ける」。井川意高の懺悔録となっており、版元は双葉社である。どんな経緯で出版となったのか、興味深い。ノンフイクションの佐野眞一が週刊現代に連載した「大王製紙井川家三代の知られざる物語」に井川は猛反発している。これは講談社を向こうに回すことになるので、大衆誌を得意とする双葉社という選択になったのかもしれない。既に10万部ということだが、本書の印税は全額社会福祉事業に寄付しますとなっている。ざっと1400万円となるのだが、彼にすればはした金だろう。
 ではなぜ、懺悔録を出す気になったのだろうか。「プライベートでは破綻した私だが、ビジネスにおいては大王製紙という巨大な船をうまく舵取りできたと自負している」。また105億円はすべて完済しており、迷惑をかけていないということも含めて、世間にわかってもらいたくて執筆した、といっていい。また、懲役4年という実刑判決は完済しているのに不服であるとの思いも隠さずに、刑期をつとめあげたあとに新しいビジネスをやりたいという意欲も語っている。余りの軽さに、懺悔録ではなく弁明録とすべきだ。
 老人としては、自らの弁明であれば、果たして定価をつけて販売する代物ではないだろうとの思いだ。時間つぶしにはなったが、カジノの一端を知るだけなら、他に知る手立てはいくらでもある。
 はてさて、母の追悼を書こうと思うが進まない。父はスムーズに書けたのだが、母と息子というのは、カインの末裔とまではいかないがいい難い関係をもっているのかもしれない。石原裕次郎「俺の小樽」の歌詞にある「おふくろ、俺の名呼んでくれ!」が染みとおる。

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