「咳をしても一人」

気になる本は手帳にメモをする。新聞広告や書評を見て、これはと思うものだが、ほぼ買い求めている。「放哉と山頭火―死を生きる」(ちくま文庫)渡辺利夫、をメモした。この場合は著者の渡辺利夫がキーワードである。拓殖大学総長で、サンケイ新聞「正論」の論客でもあり、その思想はとても相容れないが、彼の持っている情緒的な感性には親近感を抱いている。というのは、森田療法なる神経症療法を初めて知ったのは、彼の「神経症の時代―わが内なる森田正馬」(TBSブリタニカ)であり、種田山頭火を神経症者とみたてて書いた評伝「種田山頭火の死生―ほろほろほろびゆく」(文春新書)は、自由律俳句によって苦悩からの救済と解放を謳いあげたからである。老人が妻のがん発病を抱えての苦悶の日々の中で両著を手にした。救われたことは間違いない。渡辺の専門はアジア経済であり、「成長のアジア 停滞のアジア」で88年吉野作造賞を受賞して注目していたが、こんな分野での執筆にも情熱を傾ける知的な感受性に驚いた。東京工業大学教授でもあったその頃に、富山での講演を依頼して、食事を共にしたが気さくな人柄であった。といって、東アジア共同体構想は錯誤であり、そんな幻想に未来をかけてはならないとする論には、決して与することはない。
 さて、今回は尾崎放哉に絞ってみたい。「咳をしても一人」は彼の代表句といっていいが、「入れものがない両手で受ける」も自由律が躍動している。1885年鳥取県に生まれ、一高、東大法学部というエリートコースを歩み、東洋生命保険に入社するも、人間関係に悩み、酒に溺れる。抜き差しならないアルコール依存症に陥り、奇矯な行動も加わって、人事異動での降格を機に11年勤めた同社に辞表を提出する。妻の馨は必死に止めるも、変えることはなかった。既に36歳となった帝大出においそれと仕事はなく、友人の紹介でソウルに新たに設立される朝鮮火災海上保険に禁酒の誓約をして職を得る。しかし、そこでも酒は止められず職を失う。その頃から、帝大の1年先輩である荻原井泉水(せいせんすい)が主宰する「層雲」に投句をして、手紙も頻繁にやり取りしている。また肋膜炎の病状もかなりの程度に進行している。その後長春、ハルビンと転々とするも遂に医師から温暖な日本に帰るよう説得される。放哉は京都で西田天香が創設した求道的な団体・一燈園に妻を捨てて転がり込んだ。すぐに天香の偽善にいたたまれなくなる。最後は寺男として空いた庵を探し求め、小豆島にたどりつく。
 実は作家・吉村昭も放哉の伝記的小説をまとめている。「海も暮れきる」(講談社)で放哉の句「障子開けておく、海も暮れきる」から取っているのだが、海が好きで、小豆島の西光寺の末寺の南郷庵の障子を開けると瀬戸内海が見えたのであろう。書いた吉村昭によると、地元の人たちからは「なぜあんな人間を小説にするのか?」といわれたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今、彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と散々であった。
 42歳、この南郷庵で没するが、妻の馨が妹と間違われても否定せず、遺体と対面する。肩を波打たせ、体をもだえるように泣き叫んだという。「はるの山のうしろからけむりが出だした」。最後の句だが、妻の馨にはどう響いたのだろうか。意外に放哉は死の床にあって「すばらしい乳房だ蚊が居る」などと切なく思い起こしていたのかもしれない。男と女のすれ違い。放哉、山頭火を称揚する男の甘さ、身勝手さ。そんなことが気になる老人になってしまった。

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