「生命と偶有性」

70歳まで生き永らえた。たどり着いたという感じでもある。こう書くと、生きようという意志がいつも何かを力強く選び取り、その意志の連続の上に存在するように思われるが、さにあらず。不確かな何かに、これをやったらどうかと命じられて、突き動かされるように生きてきたように思う。選び取ってきたのか、選び取らされてきたのか。偶然とも、必然ともつかぬ数々の人生の場面をくぐり抜けてきたことは間違いない。物質から生命が生まれた。ということは、生命をつかさどる精神作用も、すべて物質に還元できるのではないか。ひょっとして自分というものはそんな物質に支配され、自由な意志と思うのは錯覚ではないか。老人の妄想はそんな迷路に迷い込んでいる。そして、ここぞとばかりに脳学者・茂木健一郎の出番となった。
 生命の本質は、必然と偶然のあいだに横たわる「偶有性」の領域に現われ、それはまた私たちの「意識の謎」にもつながってゆく。私が「私」であることは必然か偶然か?私たちは自由意志によって因果の壁を乗り越えられるのか?偶有性と格闘することで進化を遂げた人類の叡智をひもとき、「何が起こるかわからない」世界と対峙する覚悟を示す、のだ。こう高らかに宣言する茂木ワールドにしばし遊んでみた。「生命と偶有性」(新潮選書)だが、行間にあふれる高揚感に圧倒される。まとめるのは難しく、手強い代物だ。半可通を許されよ。
 人格形成においては両親からの遺伝的要素は2割で、8割は生涯に出会う様々な人たちや環境の影響を受けて形成されていく。エサ場がどこにあるか、そのエサ場が突然なくなってしまった時にどうするか、エサの質を変えて生き残るのか。生の現場では予測できないことに満ち満ちている。それが偶有性だ。生物は自然の中にあふれる偶有性にいかに適応するのか、を至上命題として進化してきた。そして、脳の最大の特徴は学ぶことであり、どれほど学んでも更にその先のことが学ぶことができる。脳の働きも方程式で書けるはずと、高をくくっていた茂木は「クオリア」という概念を発見する。意識という認知プロセスで、脳内で情報処理を行う。そこには経験してきた感覚情報が流れ込み、統合され、情報を解析し、解釈するために様々な仮説を立てて、マッチングを行う司令塔である。感受性という意識の結晶といった方がいいのかもしれない。モーツアルトはクオリアを生み出す達人となる。そこには一定の規則性がある。その規則性に挑戦してくるのが偶有性だ。生の安定性を常に裏切るように出現してくる。決して逃げられない、どこまでも、いつまでも追いかけてくる。原始の海で生物が誕生したその頃から、生は偶有生に満ちていた。思いもよらぬ事態を、生物は飛躍のきっかけとしてきたのだ。
 ここで茂木は挑発する。偶有性に背を向けても、必ず追いかけてくる。だとすれば、くるりと反転して、むしろ偶有性の中に飛び込んでしまえ。偶有性を生きる中で、クオリオが選ばれ、磨かれていく。それは知らぬうちに利他的な行動となり、他人とつながり、公共性の中に満たされていく。有限なる人間が、無限なる巨大な宇宙につながる術でもある。
 何とこれは清沢満之が唱えた「絶対他力の大道」と同じではないか。無限なるものの前では、科学と宗教もひれ伏すしかないのだろう。
 中学以来の親友・森田征夫が逝った。7月2日老人が見舞った直後にすうっと眠りに落ちたという。死もまた我らなり。肺がんという偶有性なるものに、治療を拒否して挑み、隆慶一郎を愛読し、酒とうまい肴を手放さない静かなクオリオを獲得したといえる。

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