渋谷東急プラザ 

「松さんは先週亡くなりました」。「ええ!」と絶句するしかなかった。
 これが虫の知らせというものかもしれない。11月27日、息子の友人と、渋谷の忠犬ハチ公前で待ち合わせをした。東京の時間距離の勘が取り戻せず、約束の小1時間前に着いてしまったのである。そうだ、久しぶりに会って行こうと思い立って、道玄坂の東急プラザ地下の渋谷市場に足を向けた。10年ぶりであろうか、奥まった一坪足らずの店だ。屋号は能登屋で、新湊から主に取り寄せた魚介類を商っている。
 松隆之。わが新湊小学校の同級生。同じ放送委員で、校内放送や全校集会などでマイクのチェックなどをしていた。校舎の中庭で肩を組んで撮った記念写真が思い出される。家業は魚の加工で、新湊高校を卒業して、家業を手伝っていた。その頃は誰でもそうであり、それぞれの生業(なりわい)として当然であった。流通革命以前の、ある種ののどかさもあった時代だ。松の家業も何もなければそれなりに続けていけたかもしれない。その後没交渉となり定かではないが、親戚筋の冷蔵会社が放漫経営から倒産、その余波を受ける形で立ち行かなくなったらしい。昭和56~57年の頃である。それから上京したのであろう、その数年後に渋谷東急に店を出しているという話が舞い込んできた。
 初めて能登屋を訪れた時は驚いた。ずんぐりとした坊主頭の異形で、だみ声で客との対応に追われていた。昔日の面影はない。東横線沿線ということもあり、固定客がつき、それも客筋がよく、ぶり、ひらめなどの高級魚の注文が舞い込んでいた。迫力十分のセールストークで、わずか一坪の店で、年商1億円は超え、地下市場の取りまとめを務めるまでなっている。富山県人会にも出入りをし、新湊弁丸出しで、押し出しのきく実業家気取りでさえあった。東急へのテナント入居のいきさつは聞き漏らしているが、その才覚には脱帽だった。
 しかし、故郷を追われるように出てきた哀しみは消えることはなかったと思う。無休の商店街で、しかも夜遅くなるまで働き、妻子の待つ家庭もない。酒でそれらを紛らわすしかなかった。店が終わると駆けつけるから飲みにいかないか、と誘われながら、ついに果たすことが出来なかった。申し訳なく、悔やまれてならない。
 「亡くなられたのは11月22日です」と続ける若者に、あなたは、と聞くと店番のアルバイトだという。詳しくはわからないが、今の経営者は久保さんということで電話番号を教えてくれた。後日電話をいれると、妹さんの息子、つまり甥っ子だった。叔父は1年前にくも膜下出血で闘病生活に入っており、店にも顔を出したりしていたが、復帰することはかなわなかった。数年前から手伝っており、今後ともよろしく、としっかりした対応をしてくれた。何となくほっとした気分になり、香典を送ることにした。
 そしてきょう、いまひとりの昭和20年生まれが突如出現した。12月3日NHK教育テレビ番組欄。午後4時からの全国アマチュアボクシング選手権の解説に、吉森照夫とある。高校同期の吉森であることは間違いなさそうだ。東大ボクシング倶楽部で活躍し、奨学金とアルバイトで学費を工面しながら法学部に学士入学し直して司法試験に合格した。弁護士活動の傍ら、全国アマチュアボクシング連盟の専務理事を務めている。テレビで見る限り、高校時代の面影を残すが60歳の表情であった。
 さて、待ったなしの還暦世代、いかに、いかにと時を費やしてばかりもいられない。

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