「高野與作さんの思い出」

私が持っていても何の役にも立たないので、ぜひもらってください。というわけで、富山映画サークル協議会の久保勲・事務局長から数年前に手渡され、書架に鎮座していた。「高野與作さんの思い出」。箱入りの立派な装丁で、1982年に満鉄施設会が発刊した非売品の追悼集である。それが早稲田小劇場がなぜ利賀村に出現したのかという話から、ひも解くことになった。高野與作とは、亡き高野悦子・岩波ホール総支配人の父。黒部市生まれで、四高、東大土木科と進み、満鉄に入り、特急あじあの敷設に従事し、戦後は経済安定本部の建設交通局長を務めた。今でいえば、財務大臣と国交大臣を兼務する要職である。
 76年頃、鈴木忠志は岩波ホールで白石加代子の「トロイアの女」「バッコスの信女」というギリシャ悲劇を上演しており、高野悦子にも次なる演劇の拠点を探していることを伝えていたのであろう。父の郷里でもある富山ではどうかとなり、高岡を視野にいれて堀高岡市長を訪ねた時に、たまたま利賀村の宮崎村長が同席しており、どういう経緯か定かではないが、利賀村誘致で急転直下の成り行きになった。高野與作の存在がなければ、利賀の早稲田小劇場は存在しなかったのである。
 こんなエピソードに行くつく前段で、戦後演劇の最高峰ともいえる「子午線の祀り」が7月、野村萬斎の演出で再演されることを知り、そういえばこれも岩波ホールで山本安英の会による「平家物語による群読―知盛」がスタートであったのだということになり、岩波ホールの存在の大きさを再確認した。
 せっかくなので、岩波ホールについてももっと言及したい。岩波書店創業の岩波茂雄の長男・雄二郎に高野與作の長女・淳子が嫁いでいる。高野與作の四高時代の親友が雪結晶の中谷宇吉郎で、この中谷が岩波茂雄とも親しく取り持ったらしい。ちなみに茅誠司東大総長も中谷を通して親しく、高野の葬儀委員長を務めた。岩波ホールは68年の設立で、岩波茂雄は芝居が好きで山本安英に劇場を作ってあげますよと、約束していたこともあり、ビルの10階に232席の小劇場を作った。そんなところに映画の勉強でフランス留学していた高野悦子が帰ってきて、総支配人に収まったのである。74年川喜多かしこと始めたエキプドシネマは特筆に値する。文化大革命を描いた「芙蓉鎮」、中国現代史をたどる「宗家の三姉妹」は階段に長い列ができるロングランとなって、全国から映画ファンが押しかけた。蛇足であるが、黒部コラーレの世界の名画を見る会は当時の荻野黒部市長が、魚津市の新川文化ホールでの話を横取りする形で進めた。東京国際女性映画祭のプロヂューサーを務めた高野悦子がその運営費集めに苦労していて、その協力を約したことが荻野市長の決め手になったという。
 さて、明治32年に黒部で生を享けた高野與作が、日本の現代史を駆け抜けた面白さに思いを馳せてみる。四高、満鉄、戦後の占領軍の意を受けて公共事業を一手にまかなった経済安定本部。その個人の年譜のダイナミズムは歴史のダイナミズムとも波長を合わせ、彼の人格、才能が小気味よく生かされている。満鉄時代にゴルフと狩猟にのめり込み、満州にゴルフ場まで作っている。もうけた3人の娘たちだが、長女は岩波書店社長に嫁ぎ、次女はパリ大学のオリガス教授夫人で、三女は日本の映画文化を引っ張った。
 この一冊は聞き語りのオーラルヒストリーだが、次のことを肝に銘じたい。ちょっとした偶然の出会いを大事にしなければならない。そのためには大事と思い、思わせる感性を養わなければならない。特に古希を過ぎた人間は、その人脈を偶然出会った若者に惜しげもなく提供すべきである。

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