「寺山修司と生きて」

「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが 人生だ」。10年ぐらい前に、若い友人からこの出典を聞かれた。干武陵の五言絶句「勧酒」を井伏鱒二が名訳したものだが、いつの間にか寺山修司の “本歌取りの詩”で誰もが口ずさむようになった。その時、寺山は縁遠い作家なんだ、と答えた記憶がある。あとひとつ加えれば、「マッチするつかの間海に霧深し身すつる程の祖国はありや」の短歌ぐらいだ。
 82年、富山・利賀フェスティバルに、彼の劇団・天井桟敷を率いて「奴婢訓」を上演したが、迂闊にも見逃している。その頃には病状も進行していて、翌年5月に肝硬変で亡くなっているのだから、縁の遠さというしかない。享年48歳。10歳年上の、鬼才と呼ばれた才能にコンプレックスを抱いていたのだ。競馬に強いということもあった。こちらの馬券買いは、好きな数字をアトランダムに馬番に合わせるだけだった。
 「寺山修司と生きて」(新書館刊)は、彼のそばで16年間暮してきた田中未知なる女性の手記である。「時には母のない子のように」の作曲家であり、45年の同年生まれということから、読んでみようという気になった。
 職業は「寺山修司」といい切るだけに、盗作事件への反撃からだ。寺山を批判するもの、敵視するものすべての前に立ちはだかる感じである。幼少時、満たされていない寺山は、自らの言葉の世界を作っていた。俳句と短歌に出会った10代にはもう「定型の枷に自由を感受した」。使いたい言葉は目の前にあった。中村草田男、西東三鬼などの俳句をもじった。これへの厳しい批判である。しかし、人間がつかう言葉の大半は盗作相互作用だといっていい。問題はその動機であり、何といっても気高さだ。寺山はこんな手法で応えた。5・7・5・7・7を各カードにして、シャッフルして並べ替えて詩としたのだ。縦横に飛ぶ幻想も、詞の狂瀾怒涛も、アトランダムとも受け取れる主題や構成も、その実、見事に起承転結、序破急ともいうべき秩序と諧調を保っている。乱雑を超える言葉のエネルギー、これこそ寺山の真骨頂かもしれない。
 盗作事件は、定型の枷から演劇へと飛躍するきっかけともなった。才能の必然といっていい。天井桟敷を旗揚げし、最初の公演が「青森県のせむし男」。第一幕は誰もが圧倒される阿鼻叫喚。桃中軒花月が「これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の川原の物語」と口上をいうと、その恐山伝説の向こう側から、すかさず美輪明宏の長崎訛りの地霊のような言葉が加わるというもの(参照・松岡正剛「千夜千冊」)。とりわけ凝るのは美術であり音楽であり、そして証明のスペクタクルな部分だ。なぜなら、演劇に魔術生を取り戻すことで、観客が生理的に衝撃を受け、脳髄意識を掻き乱し、受けた衝撃に応えようとする。演劇はその瞬間こそ最も重要だという。創造の起源という高揚感であり、<固定した言語>の幽閉から人間が解放される。そう青森から、母から、すべてからの解放のきっかけとなる演劇であるべきだとしたのである。
 さて、彼女の自恃である。余命10年と、ひとり聞かされて寺山を守りぬかねばと思う。そこでの最大の難物は、母親・寺山はつ。子離れできない、奇行癖にして計算高い、何よりも寺山がこの母親のいいなりで、抵抗できない。何か気に食わないことがあると、火をつけると暴れだし、怒鳴り散らす。子を喰らう母である。寺山の通夜にも、葬儀にも出なかった。それでいて、「修ちゃんのものは全部返せ」といって、寺山名義の銀行通帳をわがものにし、入院費もびた一文出そうとしなかった。著作権も然りで、それを狙って直接はつにいい寄る人間が次々に現れ、全国あちこちでつまらない追悼展が開かれた。
 最後のベッドに寄り添ったのは寺山を愛した女たち4人。田中未知は寺山の気分にいいと思うことなら、と鷹揚だった。それでも、3年後彼女は誰にも行き先告げずにオランダへ。彼女に一目ぼれした男・エミールの元に身を寄せたのだ。したたかなり!さすが同年生まれと快哉を叫んだ。どんな手記でも、お涙頂戴はいけない。

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