「いのちの停車場」

 在宅医を演ずるのが吉永小百合で、舞台は金沢。これは見逃すわけにはいかない。「いのちの停車場」。6月8日13時開映なので、富山ファボーレのスタバで軽い昼食としゃれ込んでみたら、偶然昔の同僚である看護師から声を掛けられた。10余年前に在宅医療を立ち上げた同志でもある。こんな巡り会わせもあるのか、と不思議な思いに駆られた。原作は医師でもある南杏子。以前「サイレント・ブレス」(2018年10月)で綴ったのだが、記憶に残っているだろうか。

 さて、45年生まれのわが同期・吉永小百合はやはり気になる。早大文学部の学食でお昼を食べていた19歳は、「キューポラのある街」の主人公ジュンそのままの清純さだった。それが62歳の独身女医という役柄。手の表情に年齢が見て取れた。劇中で、若き女性棋士ががんを打ち明けた時、「手を見たときに、抗がん剤を打っているとわかったわ」と優しく応じ、身罷った時に自らの化粧品を取り出し、棋士の手に丁寧に塗っていた。原作にはないのだが、自ら注文を出したのではと想像した。じっと手を見る。吉永の到達した諦観なのかもしれない。

 在宅医療を社会派ヒューマンドラマ仕立ての感動だけに終わらせてはならない。病院では死ねない多死化時代に、医療費抑制にも好都合とした厚労省は、在宅に手厚い診療報酬を設定した。金沢に赴任した「まほろば診療所」の訪問先は10軒に満たなかったが、さすがにこれではやっていけない。採算ベースは60軒といわれ、医師、事務、看護師2人の4人がやっていける。在宅医療は患者の生活支援が決め手といっていい。老々介護の現実は食事、入浴、掃除に尽きる。このサポートにも気を配らなければならない。つまり労働集約型で、多機能職のネットワークを活かしていくのが肝要。映画の中で、松坂桃李が演じた車好きの青年が診療所に飛び込んできて、すぐに運転と雑務を引き受け、がんの小児患者と戯れていたが、これだけで十分に貢献できる。

 ここがポイントで、在宅医療のもうひとつの社会的使命は雇用の創出にある。地域経済は産業構造の大転換を前に経営者は怯え、雇用賃金の削減に動いている。加えて、職場の荒廃はうつ病などの精神障害が多発し、退職は後を絶たない。この受け皿に在宅医療は打って付けといっていい。猫の手でも活かせる職場なのだ。

 例えば、まほろば診療所の訪問先を100軒を超えるようなやり方に変えれば、10人の雇用も可能になる。吉永女医は夜遅くまでカルテ作業に追われていたが、これを秘書なる若者が担えば、その分医師は訪問先にエネルギーが注げる。つまり訪問先のクライアント(在宅では患者をこう呼ぶ)の意向を尊重する組織に切り替えて、頭の柔らかいケアマネなどがリードしていく。介護保険で足りない分は医療保険で補うので、医療法人、診療所の同一事業所に訪問看護、訪問介護部門を抱えることが必須。介護保険は悪いことをするかもしれないとする性悪説型だが、医療保険は医師会の政治力もあり、医師の裁量を尊重する性善説型といわれている。医師は欲張らず、この社会的使命を理解するだけでいい。初期投資もほとんど掛からず、雇用が地域で創出されていく。そんな夢物語を性懲りもなく、思い出していた。

 もうひとつの夢といえば、ここに寅さんを登場させたかった。「男はつらいよ 柴又慕情」は吉永小百合と金沢で出会い、福井を旅する物語。記念写真を撮る時に「バター」といって笑い転げるシーン。寅の最期を看取るのが小百合。究極の在宅医療は、泣き笑いが絶えないことだ。

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