「慟哭」

 麻原彰晃らオウム真理教の幹部だった7人の死刑が、7月6日執行された。執行はその日の朝、通告される。残された時間は数時間。刑務官に誘導されて処刑場に入る。最後に饅頭などが出されたりするが、ほとんど口をつけないという。教誨師と別れの言葉をかわし、目隠しをされ、110センチ四方の枠の内に立つ。踏み板がはずれ、ロープが首にかかり大きく体がバウンドし、そして再びロープが首に食い込んでいく。20分以上吊るしてから、脈を取って心停止が確認される。これは作家で映画監督でもある森達也の「死刑」からの引用だが、10年前にブログ「朝の靴音」と題して書いた。オウム事件はわが世代に、今も何かを突き付けている。
 もうひとつの記憶だ。そういえばと書棚を探して取り出してきた。裁判傍聴業を自称する佐木隆三の「慟哭 小説・林郁夫裁判」で、04年の発刊。林郁夫は地下鉄サリンの実行犯5人のひとりだが、唯一死刑ではなく無期懲役で、現在も服役している。今回の執行に実行犯は入っていない。林は47年生まれの71歳、慶応医学部卒の心臓外科医で、わが友人も同大卒の外科医という関係もあり、同世代だ。われら世代が獲得した知性が、これほどの反社会的な犯罪を、いわば確信犯として受け入れているのはなぜか。どうして、麻原ごとき男に絶対帰依するのか。林郁夫の心のうちを探ることが、この事件を理解することだと思っていた。結論からいえば、一歩も進んでいない。ひょっとして林郁夫に成り代わることだってあり得る、そんな危うさを拭い去れない。
 彼の思考経路をいま一度追ってみる。30歳にして阿含宗に興味を抱き、13年も信徒であり続けた。ちなみに麻原も阿含宗に帰依していたが3年であった。林はデトロイト留学から帰国した80年に、慶応同窓の麻酔科女医と阿含宗による結婚式を挙げている。その後、麻原の著書を読んで興味を深くし、87年にオウムに入信。そして90年、石垣島に多くの信徒が集合し、浜辺で奇妙な修行動作を繰り返す映像が思い出されるセミナーに参加した後に、夫婦子供二人の家族ぐるみで出家した。この時、自分の全財産8000万円も布施として差し出している。このタイミングは坂本弁護士一家殺害をオウムが疑われ、大きな危機にあった教団を自分の出家という形で、押し返したいという計算が働いている。心臓外科医がオウムに加わるという世論操作だが、林にはこんな世俗的な忖度もできるのだ。その後、治療省大臣という陳腐な肩書を得て、指紋を消す手術や教団離脱予備軍に記憶喪失させるいかがわしい薬剤を調合している。サリンの実行犯は当初30代の若者から選ばれていたが、麻原の指名で48歳の林が加えられた。95年3月10日、千代田線の車両内で林はサリン袋を傘で突き刺すことにためらいはなかった。逃亡劇は同年4月8日、能登の田鶴浜町の路上で逮捕されて終わる。
 拙い考察だが許されたい。精神的にも肉体的にもあるのだが、懸命な努力の後のふとした時に、限界を超える成果を得る時がある。いわば計算外の出来事で、ハイな気分となる。阿含やオウムは解脱を求めて厳しい修行を信者に課す。その小さくても到達した精神状態は、何かをマヒさせる。そのマヒが全財産及び自分の判断力を、最終解脱者である麻原にすべて委ねる行為となっていく。生きるということは、カネと権力の持つ「いかがわしさ」を宙ぶらりんであっても、引き受けることでもある。林郁夫は麻原が持つ学歴コンプレックス、阿含宗でのキャリアの違いなどから、自分に敢えて汚い仕事をやらせたと解釈し、小心者であり、自己愛的人格障害と断罪しているが、もっと学んで獄中からメッセージを送ってほしい。
 最後に、オウム的なものはもっと身近にうごめいているのかもしれない。そういえば、官邸オウムといっても、そう違和感を感じない。
  

© 2024 ゆずりは通信