「残夢整理」

3月24日午後11時過ぎであったが、心地よい足取りで友人の家のある新井薬師から中野ブロードウエイを抜けて帰路についた。賀状にメモされた久しぶりに会うか、という誘いに応じたのだが、ほぼ7年ぶりである。1歳になる孫の永翔(えいと)君が主役となり、一家総出の歓待が楽しくもあり、うれしくもあった。もう多くを語らずとも青春の記憶が駆け巡ってくれる。人生の残務を意識しなければならない年齢だということでもある。
 背中を押してくれたのが「残夢整理」(新潮文庫)で、ご存じ多田富雄の遺作でもある。心の隅々に染み透っていく。「この短編を書いている最後の段階で、私は癌の転移による病的鎖骨骨折で、唯一動かすことのできた左手がついに使えなくなった。鎖骨を折ったことは、筆を折ることだった。書くことがもうできない。まるで終止符を打つようにやってきた執筆停止命令に、もううろたえることもなかった。いまは静かに彼らの時間の訪れを待てばいい。平成」22年2月28日」と後書きに記す。この2ヵ月後に死が訪れる。
 人それぞれの鵺(ぬえ)を飼う、と称する小編に、千葉大医学進学課程での交友を描いている。関君が平成20年に76歳で死んだ、で始まるのだが、富山・高岡の関病院の御曹司であった。幼少の頃に小児麻痺を患い、その後遺症で左足が不自由となり、それが鵺となって彼の心のうちに巣食った。莫大な財産をあっという間に食いつぶし、孤独のうちに息を引き取ったのだが、昭和最後のジェントルマンであり、その人生は破天荒であった。医学部には進まず、上智のドイツ文学科に入るがそこも中退して、高岡に戻った。父親の急死もあったのだが、病院をたたみ、愛人の女性とヘッドライトという音楽喫茶を開いたり、車の修理販売店をやったりしたがうまくいかず、結婚して3人の子供にも恵まれたが離婚、無一物となるのだが、態度は学生時代同様に傲岸そのままだった。
 いまひとつの小編に、「朗らかなディオニソス」として橋岡久馬との交友を語る。橋岡家は7代続く能楽界の名門で、久馬はちょっと奇矯癖を持つ天才能楽師である。彼の飼う鵺は復員して間もなく、肺結核となり、胸郭成形術で克服したのだが、能楽師として一番大切な呼吸機能と立ち姿の美しさを失ったことだ。持ち前の叛骨で己が肉体的な欠点を逆手に取り、退屈な直面(ひためん・面をつけないこと)の男物狂いを、凄まじい情念の劇に仕立て上げていった。今も語り草になっているのが昭和61年の国立能楽堂での「道成寺」である。公演5日前に左手首を骨折したのだが、ギブスで固定されたまま、青年能楽師にも困難とされる演目を命がけで演じ終えた。「本日のシテ橋岡久馬は、急の事故のためお見苦しき事あれば、平に御寛恕を賜りたく願いあげ奉り候」と張り紙し、救急車を待機させてのもので、終演後万雷の拍手が鳴り響いた。多田が脳死と心臓移植をテーマにした新作能「無明の井」も久馬が演じている。晩年は舞台でつける面や装束に以前にもましてこだわるようになり、家も舞台も売り払ってその求めるものに糸目をつけなかった。「能面一面、“泥眼”、不知作、江戸時代初期の名品を、貴家にお納め申したく候。値は120万にて候」という手紙が多田にも舞い込むようになる。
 はてさて、誰にも潜む鵺であるが、関を回顧してこう結ぶ。関は、いつも自分の鵺が命ずるままに、己の運命に従って生きた。重くのしかかった両親の偏愛も家族の桎梏も、関の選択を変えなかった。ギリシャ劇の英雄のように、毅然として運命を引き受けた、と。
 わが残夢整理はどうなるか。深夜の総武線を中野で乗って、大久保駅で降りた。わが青春の原点である三福会館はホテル海洋となり、それが変じたハンドレッドスティ東京新宿に辿りついた。そのベッドの中で思いをめぐらす。鵺は消滅して、無害な好々爺に変じてしまうのだろうか。鵺よ、甦ってくるのか。残夢整理と称して、生き直すことがあっていいのではないか。ご同輩よ、この文庫本ぜひ一読されたし。

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