「死の棘」「狂うひと」

 思いやりの深かった妻ミホが、夫トシオの日記でその不倫を盗み読みして、突然神経に異常を来たし、狂気のとりことなって、憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻に変り果てる。平手打ちも飛ぶ。ひたすら詫び、許しを求めるトシオ。そんな凄絶なやりとりが10年余も続く。それを書き綴ったのが島尾敏雄の代表作「死の棘」(新潮文庫)。60年から76年まで月刊の文芸誌に、12章が分載された。私小説の極限ともいえるが、息苦しくなって、本を投げ捨ててしまいたくなる。友人であった南日本新聞の亡き山下克己から、読んでみろと手渡された。南日本新聞は鹿児島県をエリアとする地方紙。鹿児島市生まれの妻ミホの 随筆「海辺の生と死」が74年の同紙文学賞を受賞したこともあり、いち早く「死の棘」にも注目していたのであろう。当時30歳前後だったが、読み切ることはできなかった。

 今あらためて手にしたのは、手練れのノンフィクション作家・梯久美子が「狂うひと 死の棘の妻・島尾ミホ」(新潮社)を16年に上梓し、膨大な資料、証言で読み解き、真実を探ったので、ようやく見えてきたものがあったからだ。私小説作家というのは、自らの人生を小説の題材に、くべても恥じない。作家的な野心が自らを追い詰め、虚実がないまぜになり、虚を実にすべり込ませる。妻にわざとその日記を読ませたのだ。そう推察する方があたっていると思われる。

 ふたりの出会いは絵に描いたようなもの。44年特攻艇・震洋隊の隊長となって加計呂麻島に赴任したトシオは九大文学部卒ということもあり、古事記を手にしていた。ミホは東京の高女を出て、島で代用教員を務めていたが文学的な素養も備えていた。特攻隊を慰問する演芸会で出会ったふたりは、いつしか相聞歌でやり取りし、出撃があれば、ミホはすぐに後を追うというギリギリの逢瀬が続く。巫女のように見えたという。運よく特攻出撃はなく、いのち永らえたトシオとミホは神戸で新生活を送る。トシオはその間、庄野順三、三島由紀夫などと同人誌を発刊するなど活発な交友を深めていく。52年には上京して小岩に居をかまえる。有名な同人誌「VIKING」の創刊にもかかわるが、富士正晴の酒癖、島尾敏雄の女癖とはやされていた。その頃に不倫の相手「アイツ」が出現する。小説の中でも「アイツ」を明らかにしていない。

 54年9月29日、朝帰りしたトシオは書斎の机と畳と壁に血のりのようにあびせかけられたインキ。そのなかにきたなく捨てられている日記帳。犯罪者のそれと重なり、足の底からふるえがのぼってきた。妻の前に据えられた私に、どこまで続くかわからぬ尋問のあけくれがはじまった。ピークには千葉の国立国府台病院精神科の閉鎖病棟に二人で入院した。子ども二人の育児も、家事も放棄し、ひたすらトシオを苛んでいく。

 三島由紀夫の島尾評を紹介しておく。「われわれはこれらの世にも怖ろしい作品群から、人間性を救ひ出したらよいのか、それとも芸術を救ひ出したらよいのか。私小説とはこのやうな絶望的な問ひかけを誘ひ出す厄介な存在であることを、これほど明らかに証明した作品はあるまい」。

 ひとつの救いのように見えることがある。ミホはこの「死の棘」の清書作業を行っている。不倫の夫と、文学するトシオとは別の存在であるという。そこにミホの美しさ、崇高さを見い出し、トシオの恥ずべき狂言者の卑劣さを際立たせ、地獄図の果ての夫婦愛を描き切ったとも。そして、トシオが亡くなってからほぼ20年、ミホは喪服で通した。

 通俗で凡なる男は、こう歌うしかない。「男と女の間には、深くて暗い河がある」。久しぶりの野坂昭如の「黒の舟歌」を聞いた。

© 2024 ゆずりは通信