「蒼龍の系譜」

 幕末の混乱期に生きていたら、どうだろうか。多分、尊王攘夷にかぶれているから、生き永らえることはなかったろう。幕末の1864年、加賀藩が京都での異変に対して行った処刑は勤王派40数名を、生胴(胴を切る刑)1名、刎首(はねくび)1名、切腹4名、その他流刑、永牢。みんな死を賭して思想に殉じた。

 そんな幕末の激動を描いたのが「蒼龍の系譜」(筑摩書房)。44年間本棚で眠っていた本が、コロナでよみがえった。加賀藩・高岡の蘭学医・長崎家の一族を中心に描いた雄大な歴史小説。一介の医家とはいえ、蘭学、国学、尊王攘夷論、開国倒幕論、廃仏毀釈など、幕末期のさまざまな思想に揺さぶられ,さまざまに傷ついた。維新を実現させたのは、こうした下級武士、豪商農の知識層だった。文芸評論家の唐木順三が帯で「生死を己が信条に懸けた気概の士があますところなく登場する。その筆致は重厚である」と絶賛している。

 富山に住む者にとって、聞き慣れた地名が飛び込んできて、情景が浮かんでくる。ひたすら江戸幕府を恐れ、守りに徹した加賀百万石前田家。その支藩である富山前田家十万石はすべて宗家に倣うことを藩是としてきた。事なかれが身に付いた藩にとって、幕末の混乱は戸惑うばかりだった。その商都・高岡で蘭学に目覚め、新しい時代の予兆を感じた長崎家に連なる人間は、結果として守旧に凝り固まる藩との軋轢に苦しむ。あとがきで驚いたのだが、著者の木々康子は、フランスで浮世絵を売り捌き、印象派絵画を日本に紹介した林忠正の孫だという。29年生まれ。東京女子大で歴史・哲学を学び、膨大な資料を駆使して緻密に仕上げているが、執筆の動機は祖父への深い思いだろう。

 さて、高岡で蘭方医を継ぐ五代目・長崎浩斎は江戸留学で杉田玄白、大槻玄沢に師事し、「蘭学事始」の写本を手に入れている。いわば全国区のレベルであった。その息子の長崎言定が中心となって小説を構成する。言定の興味は蘭学、国学、和歌、経史詩文、仏教と幅広く、交友も高峰譲吉の父・精一を高岡に招くなど商都の財力も窺い知れる。1858年コレラが魚津、放生津で発生し、数百人の命を奪い、手の施しようのない無力感も綴られている。

 ここはやはり富山藩に限定して話を進めよう。言定の妻は富山藩の林家から嫁いでいる。この林家が富山藩で幕末から明治にかけての動きに大きく関わる。特筆されるは廃仏毀釈。これを主導したのは大参事・林太仲で、言定の甥にあたる。過激な合寺を強行し、木造の仏像は神通川に運ばせて焼却し、金属類は鋳造所で鋳潰された。怒った各寺院は明治政府に直訴して、得意の絶頂にあった林太仲は失脚する。言定の次男・志藝二はこの太仲の養子となって、林忠正を名乗る。江戸に留学し、大学南校でフランス語を学んだが、養父の失脚もあり、富山にも帰れない境遇となった。そんな折に1887年パリ万博の通弁はどうかとの話に飛びついて、渡仏する。忠正には高岡商人の血も受け継がれていた。すでにジャポニスムの熱狂の中にいた印象派の画家たちは、日本を知りたくて、連日博覧会の展示場を訪れた。彼らの疑問や質問に、熱心に答える林忠正は強く印象づけられ、彼らとの交友はこの時から始まった。約半年間続いた万博終了後も忠正は帰国せずにパリに住み着き、以降27年間にわたって彼の地で画商として活躍した。そういえば最後の富山藩主・前田利同(としあつ)もフランス、イギリスと留学している。

 偶然に生まれる人間は時代を選ぶことはできない。与えられたステージで頑張るしかないのだ。幕末であれ、何であれ、その結果はすべて受け入れていくしかない。みんな、そうして生きてきたのだから。

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