「若年性認知症の妻と生きる」

 わが身に起きれば、絶望に打ちひしがれ、夫婦で心中していたかもしれない。知り合いの手記は「若年性認知症の妻と生きる」と題され、「09年3月、異変は50歳になったばかりの妻に起こりました」で始まる。胡麻麦茶を買いたくなり、車で出かけた妻は大量にそれを買い込み、帰宅の途中で袋小路に迷い込み、バックしながら脱輪して途方にくれていた。帰宅して、不在を不審に思った僕はすぐに携帯に電話をかけたが、たどたどしく要領を得ない返事に驚いた。これは序章に過ぎない。人間が壊れていく悲劇がこれでもかと突きつけられていく。

 心療内科を受診していたが、この事件を機に大学病院精神科を受診した。MRⅠ検査の結果、右前頭葉の萎縮が顕著な前頭側頭型認知症と判明した。前頭前野の萎縮(細胞死)が進むと、理性の働きが目立って低下していき、考えや手順などを整理する力、判断力、感情抑制力などが目に見えて衰えていく。

 受診1年前から気になっていたのが常同行動。習慣的でかつ脅迫的なもので、コンタクト洗浄液や、ごま油、缶ビールなどを繰り返し、大量に買い込んできました。判断がつかないのです。また日常行動も幅が狭まり、日中の大半をパソコンに向かっていました。整理する能力の低下も顕著で、部屋は買ってきたものが乱雑に積まれ、冷蔵庫はただ詰め込むために野菜などが腐り、汁がたまる程でした。そして料理の手順もわからなくなり、ひとりで料理が出来なくなってしまいました。

 そんなところに起きたのが、09年9月の早朝。眼鏡も掛けずにひとりで車に乗り、2日前に泊まった長野の宿を目指したというが高速のガードレールにぶつけて破損した。更に11月にはひとりでJRで金沢へ行き、その帰途に緊急停止ボタンを押してしまい、注意を受けても更に緊急停止ボタンを押し続け、警察に引き渡される事件を起こした。そんなこともあり、妻をひとりにしておけないと、ヘルパーや妻の友人に家に来てもらうか、介護施設に預けるようにしました。

 次に起きたのが、情動失禁。些細なことから、手あだり次第にものを投げ、ガラス器などを粉々にしてしまいました。これを見て頭にきた私は妻を横倒しにして、布団の上に抑え込んだのですが、「自分はゴミだ。変なことばかりする。踏切まで行って、汽車に飛び込み、死にたい」と妻は叫びました。包丁を持って自分の頭を叩く自傷行為や、2階から飛び降りようとする自殺衝動も頻回に起きるようになったのです。

 12年には言語障害から意思疎通が覚束なくなり、歯磨きや排便処理も難しくなって、体のバランスを失ってすぐに転び、体が強張る筋強剛、強制把握、嚥下障害などが起きてきました。

 そんな症状を前に自制心を失いそうになったが、辛うじて乗り越えることができたのは、妻への愛情と、周りの人たちの支えです。妻には笑顔を絶やさず、その笑顔を彼女の顔に近づけ、手を握り、話しかけました。時にキスをしてやることも。周りの人達といえば、介護施設の施設長です。介護のプロというより、人間としての達人です。この施設長の「ぞうさん」の替え歌に妻はいつしか唱和するようになっていました。最期まで寄り添えたことに感謝しています。

 はてさて、人間とは何か、自分だと思っている自己とは何か。前頭前野から繰り出される指令なるものに支配されているホモサピエンス。程度の差はあるが、誰も同じようにアルツハイマーを病んでいるのだ。エーザイのレマネカブなる高額の治療薬も必要ない。ウイズ アルツハイマーでいこう。愛だけが救ってくれるのだ。

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